網戸神社

小山市網戸(平成18年1月8日)

【狛見倶楽部 佐野支部 クマちゃん通信員より】
 藤岡乙女線を乙女方面に進み、網戸地区、長慶寺付近にあります。狛犬さんは、三対でした。手前から、平成2年、大正11年、年代不明です。境内には「延喜式内胸形神社」という石碑がありました。近くの寒川地区にも「胸形神社」がありますが、この網戸神社も、このように呼ばれていた時期があったのかもしれません。

 この神社は173号線と思川に挟まれた網戸地区の網戸小学校北東約500mに鎮座する式内社です。熊さんの言われるように、すぐ近くの寒川地区にも「胸形神社」があり、どちらも式内・胸形(むなかた)神社の論社となっています。由誌にある「寛政、文政にかけて社格問題その他で揺動し、かつ曲折した」というのはこの事を指しているのでしょうか?因みにこの神社の社名の読みは、「あみと」ですが、地名の網戸の方は、「あじと」と読みます。
 創建年代は不詳ですが、社殿の再建が平城天皇の御代、大同元年(西暦八○六)とありますのでそれ以前の創建といえると思われます。御祭神は田心姫命、配祀は大山祇神、天兒屋根命です。当地の英雄藤原秀公や源頼朝、歴代の網戸城主の崇敬も篤かったようです。

「網戸神社由誌」
 当社の主祭神、田心姫命(水運の神)をいつ頃勧請したか未だ明らかではないが社殿の再建は、平城天皇の御代、大同元年(西暦八○六)十月二十八日である。
 醍醐天皇の御代に、延喜式内に列したともいわれたが詳らかではない。
 天慶二年、藤原秀郷は、平将門追討に際し当社に祈願し、戦勝の砌、金百貫文を奉納した。
 源頼朝も、文治三年、小山政光の妻、寒川尼を当地方の地頭職に任じ、当社に領地を寄進した。以来、尼公をはじめ、歴代の網戸城主の崇敬も篤く、小山家の定紋「左二ツ巴」を、当社の神紋としている。
 この頃、藤原一族の祖神、天児屋根命(人神の間をとりもつ神)を併せて祀った。
 江戸時代、後光明天皇の頃より、寛政、文政にかけて社格問題その他で揺動し、かつ曲折した。
 かくてその後、古河藩の治下にあっては、在郷の篤志家等が、神官を輔翼して、当社を護持し、維新を迎えた。
 明治新政府は、国家神道の観点から、神社の再編成をなしたが、当地方は大幅に遅れた。
 大正三年五月二十日、渡良瀬川改修工事の一環として堤防拡幅がなされ、当社は、本宿二四四八番地の千古の杜より、旧城内に遷宮した。
 この年の八月十九日、沼ノ台の浅間神社、庚申塚の皇宮神社、高場の熊野神社、折本の奥瀬神社、本宿の八坂神社、大境の神明宮を合祀し、既存の水神宮、天満宮、千形神社、権兵衛稲荷神社、三峯神社等と共に境内神社とした。
 神事は、陰暦二月十五日(湯立)、六月十五日(八坂神社の祇園祭)、九月十三日(十三夜)、及び陽暦十一月二十七日(八郷廻りの御出)、十二月二十二日(稲荷神社の冬至祭)である。
 神職は、天正以降、小山家譜代久楽持家の世襲である。

 天地のつきることなく縁なす このふるさとの神をしぞおもう

 昭和五十九年甲子秋

神社入り口 誇らかな式内社の社号標
面長の平成狛犬
(平成2年建立)
打って変わってふくよかで穏やかな大正期の江戸狛犬。
双方とも吽で、右は子狛を、左は玉を持っています。

(大正11年建立)
こちらは年代不明の江戸尾立ち狛犬。
短めのストレート顎髭が特徴で、阿吽とも奥眼で、愛嬌のある笑い狛犬です。
私は1700年代後半の建立と思っています。阿は宝珠を頭上に乗せています。
拝殿 拝殿の唐破風
木鼻狛犬と象 本殿覆い屋
境内社・稲荷神社 数々の合祀社
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