浅間神社(下の宮)

足利市田中町(平成20年6月15日)

東経139度26分48.29秒、北緯36度19分45.46秒に鎮座。

【狛見倶楽部 佐野支部 クマちゃん通信員より】
神社は、足利太田線を太田方面に進み、渡良瀬川に架かる渡良瀬橋を渡った右側です。地元では女浅間神社と呼ばれ、ペタンコ祭が有名です。狛犬は居ませんでした。江戸時代の石碑が残っています。

この神社は東武伊勢崎線・足利市駅の北西500m程の辺り、渡良瀬橋の南側の小さな山の上に鎮座しております。

足利富士浅間神社
鎮座地 足利市田中町地内
御祭神  木花咲耶賣命(コノハナサクヤヒメノミコト)
初山祭  毎年6月1日(ペタンコ祭)
由緒  当神社は、天喜2年(1054)藤原秀郷侯七世の孫、藤原姓足利氏の祖、従五位の下足利大夫成行公が足利城築城に際し勧請されたと伝えられており古来より足利富士として信仰され上の宮と下の宮の二社から成り上を男浅間、下を女浅間と称し崇拝されております。現在の上の宮は昭和十年に改築され下の宮も平成七年に改築されました。
 初山ペタンコ祭は江戸中期に始められたと伝えられています。当時の足利は富士信仰が盛んに行われ大勢の信徒、行者、先達、がおり広く信仰されていました中に当初代官田部井政右衛門の名前も境内石碑に残されています。
 その頃足利を流れる渡良瀬川が毎年氾濫し飢饉となり疫病が流行多くの幼い生命を奪われ困った人々は神社のご朱印を子供達の額に押し御神威で幼い生命を守ろうと始めたのが今日迄伝承されております。
 此の祭りは足利市重要文化財民族文化財に指定されております。無病息災、安産子育、無事成長、開運出世の守護神です。

5号線の反対側より見る、参道入り口。

参道途中の二の鳥居と最後の石段

拝殿と本殿

江戸時代に建てられた石碑

天保10年(1839) 嘉永元年(1848)

嘉永2年(1849)、食行身禄御霊前

富士講の開祖といわれるのは、長崎出身の長谷川(藤原)角行だが、中興の祖といわれるのはこの碑に刻まれた、食行身禄です。身禄は、富士講の呪術的性格を廃し、信仰を民衆の主体的な生き方へと高めて、わかりやすく日常道徳の真摯な実践を説き、より普遍的な天下の民の救済の観念を体系づけたようです。なかでも「三一日の御巻」では、女性蔑視や抑圧の政治に対して厳しく反対し、男女は「同じ人間なり」。人間は人をうらんだり、見栄を張ったりせず、一生懸命頑張れば身分も生活も向上し、来世においても身分の境遇ができると、身分と貧困に苦しむ民衆に明日と来世を説いて生きがいを持つように教えたのである。 身禄の思想は享保の飢饉や一揆を背景に急速に信者を増やしていった。幕府は。家々の門前で祭文を唱え、護符を出し、いたずらに民衆の不安をあおるとして、富士講に対し度々禁止令を出したようです。

富士の御祭神は木花咲耶賣命。女神を御神体とするため、 嘗て富士山に女性が登ると天候不順や耕作不良が起きると信じられ女性の登山は嫌われたようです。ここに身禄の御霊を祀る石碑が立っているのも、男女平等を説いた身禄によって開かれたからでしょうか。

ペタンコ祭の受付所

足利市重要文化財(民族文化財)
浅間神社のペタンコ祭
毎年6月1日は、昔から足利富士浅間神社の山開きです。この一年の間に生まれた赤ちゃんの初めてのお参りで、神前にて神社の御朱印を額に押していただき、無病、息災、無事成長を祈願する祭礼です。額に御朱印をペタンと押すことからペタンコ祭の名で知られています。今からおよそ三百年ぐらい前から始められたと言われています。
神社の境内には、江戸時代の石碑があり多数の信徒の名前と行者、先達の名前が残されています。現在、形は変わっても富士講が初山講となって氏子や総代達により受け継がれて、毎年六月一日の富士山の山開き、これにちなむ初山ペタンコ祭を行っています。
足利市教育委員会