川崎天満宮

足利市川崎町(平成17年10月27日)

【狛見倶楽部 佐野支部 クマちゃん通信員より】
この神社は、渡良瀬川の堤防の近くにありました。狛犬さんはいなかったです。日光に向かう例幣使が必ず立ち寄ったことで知られています。古そうな水盤があったので、いつ頃のものか裏を見ました。天保と書いてあるように思われますが、はっきり読めません。本殿は見られませんでした。

この神社は御祭神は菅原道真公ですが、創建は不詳のようです。日光例幣使街道が佐野から足利に入り南に折れて渡良瀬川を渡る手前右側の土堤下に鎮座しているようです。今でこそごく普通の天満宮ですが、江戸時代には例幣使が立ち寄るほどの格式の高い神社だったのでしょう。例幣使については長くなりますので、下記にてどうぞ。

『ヨッシーの歴史豆辞典』
◎例幣使[れいへいし]とは
 一言で言うと例幣使とは神に祈りを捧げる「金の幣(ぬさ)」を奉納するための勅使です。
江戸時代初期、「東照大権現」の神号を受けた徳川家康公を祀る「日光東照社」が造営され、正保2年(1645)には「東照宮」の宮号が朝廷から授けられ、以後「日光東照宮」と呼ばれるようになりました。因みに、臣下を祀る神社で宮号が授けられたのは、「菅原道真公の天満宮」と「徳川家康公の東照宮」の二社のみです。
 朝廷は、翌年4月、臨時に日光に捧げ物をしましたが、正保4年(1647)からは家康公の命日に、毎年、奉幣使が朝廷から派遣されることになり、毎年恒例となったので例幣使と呼ばれるようになったのです。
 この事は、朝廷は皇室の祖廟である伊勢神宮へも例幣使を派遣していましたから、同格の例幣使の派遣を受ける事により、幕府と朝廷の立場が事実上対等のものとなった事、権威が権力に屈したことを示しています。これ以降、正保3年(1646)から慶応3年(1867)まで計221回、1回も休むことなく例幣使は継続されました。
 朝廷にとってははなはだ屈辱に満ちた例幣使であり、また江戸時代のお公家さんは貧乏のどん底に喘いでいましたから、ここぞとばかりに、乗っている駕籠をわざと揺すり金品を要求する行為は「強請(ゆすり)」の語源となったり、江戸に出ると、日光から持ち帰った前年の金幣を細かく刻み江戸表の大名屋敷に送りつけ金品を要求したりと、例幣使の行状にはろくな事が無かったようです。(五街道ウォークにようこそ参照)

台輪鳥居と扁額

境内の様子

天保?年4月奉献の水盤

拝殿

拝殿の扁額「霊廟」と書いてあります

本殿覆い屋

末社群