足利市菅田町(平成18年6月8日)
【狛見倶楽部 佐野支部 クマちゃん通信員より】
神社は、国道293号線を佐野方面に向かい、少し左に入った菅田地区にあります。手前から、昭和15年の狛犬さん、平成10年、昭和61年の狐さんが居ました。神社は、足利義兼が建立したそうです。出世稲荷と呼ばれていて、赤い鳥居の側に推定樹齢400年の御神木、「出世杉」がありました。
この神社は国道293号線の菅田町の信号を東に入り、二股を右にとり、ひかり幼稚園前を通り過ぎると、突き当たりに鎮座しています。
正治元年(1199)、源姓足利氏二代義兼公の勧請と伝えられ、その後の足利一族の繁栄にあやかり、庶民の間では、出世や養蚕、子供の成長等で信仰を集めていました。
またこの神社は市の文化財指定「三十六歌仙図」の額を有しています。これは嘉永7年(1854)に福田青靄が描いた物で、市内でただ一ヶ所、36枚全部が残っているものとして大変な貴重品だそうです。
創建者の足利義兼公(1154〜1199)は、平安時代末期から鎌倉時代前期の武将で、1180年、頼朝が伊豆で挙兵するとすぐに頼朝に従い、翌年2月には北条政子の妹と結婚しました。その後は頼朝の弟・源範頼を助け、平氏討伐などで戦功を挙げ、上総国の国司に推挙され、鎌倉幕府内では頼朝の一族に次ぐ席次を与えられました。けれど1195年3月に東大寺において出家し、義称と称して以降は、下野国足利の樺崎寺に隠棲し、1199年3月8日に樺崎寺にて死去しています。この突然の義兼の出家は、彼があまりに有能すぎる武将だったため、頼朝をはじめ周囲から排斥されることを恐れての処世術であったと考えられているようです。(フリー百科事典『ウィキペディア』参照)
また足利商工会議所 まちおこし探偵団 「のうすの会」によると、「明治時代に門前の雑貨商を訪れた謎の老爺が「毎年旧暦の12月25日に神社で頒布する「戸司完前」の文字が入った護符を貼れば火難に遭わない。」と告げて石段を上り忽然と姿を消しました。翌年の大火でその通りにした家が焼失を免れたことから火伏せの通力で知られるようになりました。」という『火伏の菅田稲荷』としても知られているようです。