焼津神社

焼津市焼津2-7-2(平成19年11月25日)

東経138度19分1秒、北緯34度51分38.72秒に鎮座。

 この神社は東海道本線・焼津駅の南南西約1kmに鎮座しています。鳥居をくぐると100m程の参道の奥に広い境内があり、その最奥に豪壮な社殿が建ち、参道脇や境内には沢山の境内社が祀られています。拝殿の木鼻や挙鼻も素敵だったのですが、鳥除けの網が被され撮影は困難でした。拝殿脇の御神木は樹高はあまり高くはないのですが、根本付近で大きな枝が分かれ、まるで木の炎のように見え印象的でした。また、引きも切らずに参拝者が訪れる地域の方達の崇敬の篤い神社…という感じが良く伝わる社でした。

 御祭神:日本武尊 配祀:吉備武彦命、大伴武日連命、七束脛命
 例祭日:8月12日・13日
 摂社:市杵島姫命社(祭神 市杵島姫命)
 飛地境内摂社:須賀神社(祭神 須佐之男命・奇稲田姫命・大己貴命)
 末社:七社合殿(浅間神社・竈神社・天王社・八幡社・橘姫社・春日社・稲荷社)、五社神社(市神社・天神社・天白社・藤之宮神社・王子神社)、稲荷神社(祭神 宇伽之御魂)
 境内社:焼津天満宮(祭神 菅原道真公)、焼津御霊神社(西南戦争から第二次大戦までの国難に殉じた焼津市出身の2500余柱の英霊)、郷魂祠(第二次大戦中、東南アジアで鰹節製造業等を行うために設立された有限会社皇道産業焼津践団の殉職者300余柱)
 由緒:式内社で、旧社格は県社です。第二次世界大戦後に神社本庁別表神社に加えられました。旧称は入江大明神)。
 日本神話では「日本武尊の東征のとき、この地の国造が謀って日本武尊のいる野原に火を放ち、日本武尊は天叢雲剣で周囲の草を薙ぎ向火を放って難を逃れたという地である。」と伝えられています。主祭神は日本武尊で、配祀神の吉備武彦命、大伴武日連命、七束脛命は東征に付き随った家臣です。御神体は「火石」と「水石」であると伝えられ、伝承によれば、日本武尊が水石と火石を投げた所、1つがこの社に、もう1つは熱田神宮に落ちたといいます。
 創建は、駿河国風土記によれば反正天皇4年(409)で、延喜式神名帳では駿河国益頭郡4座のうちの1社として記載され、小社に列しています。かつては現在地の南東数kmの地(現在は海の中)に鎮座していましたが、次第に海岸線が後退したため、現在地に遷座したと伝えられています。『駿河国諸郡神階帳』には「神階正四位下燒津明神」と記載があります。
 今川氏が社領500石を寄進したと伝えられ、江戸時代には朱印地70石が附せられました。
 明治6年3月22日郷社に列格し、明治16年6月25日に県社に昇格しました。明治40年1月12日に神饌幣帛料供進社に指定され、昭和41年7月1日には別表神社に列せられました。
 8月13日の例祭では、2基の神輿が激しくもみあい、「東海一の荒祭」と言われています。例祭前日には、その年に生まれた子供を抱いてくるくる転がし無事成長を願う「神ころがし」の神事が行われるそうです。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』参照)

社号標 神社入口
参道の様子 境内入口から参道を振り返る
境内社・郷魂祠
由緒書きはこちらで
拝殿
拝殿内の様子

拝殿の木鼻狛犬
本殿
境内社・焼津御霊神社

焼津御霊神社拝殿
焼津御霊神社本殿
焼津御霊神社神殿狛犬
境内社・焼津天満宮 境内社・市杵島姫命神社
境内社左から・
春日社、橘姫社、八幡社、天王社、
稲荷社、竃神社、浅間神社
境内社・稲荷神社
境内社左から・
市神社、王子神社、天神社、
天白神社、藤之宮神社
ご神木
境内の木々
御祭神・日本武尊像