石室(いろう)神社

賀茂郡南伊豆町石廊崎125(平成21年2月7日)

東経138度50分55.20秒、北緯34度35分56.40秒に鎮座。

 この神社は伊豆半島の最南端に位置する石廊崎の突端に鎮座しています。16号線から案内に従って南に入ると、突き当たりに石廊崎漁港、観光船乗り場、駐車場があり車はここまでしか入れません。駐車場脇には大きな役行者・小角像がたち、ここから先は緩やかに上る坂道を1kmほど歩きます。案内板には20〜25分位で石廊崎に行けると書かれていましたが、登りの不得意な私が写真を撮りながらの参拝でしたので、実際には行きは40分ほど、帰りは20分ほどかかりました。
 緩やかな坂道の参道からは左手に石廊崎漁港や鷲ヶ岬の紺碧の海が見え、観光船も就航していました。参道途中の分かれ道には道しるべがあり親切な案内が書かれていますので、間違いようもなく岬先端へと行くことが出来ます。途中の崖の中腹には川津桜が咲き、桜の蜜を吸うメジロの姿も堪能できました。
 その後、参道右側の「石廊崎特別地域気象観測所」を過ぎると、やっと神社の明神鳥居が見えてきます。鳥居から更に参道は続き、木々のトンネルを過ぎると目の前が開け、眼前に石廊崎の灯台と遠州灘が見えてきます。灯台の横の小路を進むと目の前には穏やかな遠州灘が広がり、参道眼下には熊野神社参道が見え、岩礁に打ち付けた波が小さな渦を巻いていました。
 ここから参道は左に曲がり急な石段を降ると、社殿が海に突き出た崖の中程に岩にめり込んだように建てられています。社殿入り口には社務所があり、奥に完全に磐の窪みに建立されている本殿が有ります。

 御祭神:伊波例命、物忌奈命、十一面観音、合祀:住吉大神、大六天神、大国主神、崇徳天皇、事代主神、梵釈四天王、海神自在青龍王
 由緒:由来や創建時期には諸説があり、必ずしも定かではない様ですが、社伝によれば文武天皇大宝元年(701)に初めて堂が建てられ、最初は観音像と第六天神を安置していましたが、その後役小角が神託を受けて伊波例命を祀ったといわれています。
 一方「石廊山金剛院縁起」によると、役小角が伊豆大島へ流されたとき(文武天皇3年(699) 〜文武天皇5年(701))、十一面施無畏の神力を得てこの地に至り、また文武天皇4年(700)に大地震があった際にも、龍と白鳥が現れてこの地を守り、村人の一人が夢の中で海中より宝殿が浮かび上がって岬の中腹の岩窟に座すのを見たため、行ってみると果たして宝殿が出現し中に十一面観音が安置されていました。その後更に天平年代(729 〜 749)、行基によって第六天神が祀られたともいわれています。
 また「秦の始皇帝5世の孫と云われ日本に帰化した(異説もある)弓月君(ゆつきのきみ)が物忌奈之命と称されるようになり、これを祀る神社として、その子孫を名乗る秦氏が建立したもの」とする説も有力です。但しこの物忌奈之命が、同じ旧伊豆国の神津島に祀られている物忌奈命と関連があるか否かは明らかにされていません。
 延喜式神名帳には、伊豆国賀茂郡に「伊波例命神社」があったことが記されており、一般には当社のことであるとされていますが、後世の付会であるとの説もあります。
 以降、神仏習合の金剛山石室権現として人々の崇敬を集め、江戸時代には韮山代官所を通じて徳川幕府から米2表の寄進を受けたといいます。伊豆七不思議のひとつで当社にまつわる「石廊崎権現の帆柱」の伝説が生まれたのはこの時代であるとされています。
 明治初期の神仏分離により石室神社と称するようになり、現在の社殿は明治34年(1901)に再建されたものです。海上安全や商売繁盛、学業成就の神として、また伊豆半島の先端に位置する景勝地として有名です。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

参道入口
参道入口左側の駐車場と
石廊崎漁港観光船乗り場
駐車場脇に建つ役行者・小角像

坂道の参道と参道から見える石廊崎漁港
坂道の参道と参道から見える鷲ヶ岬
参道途中に建つ道しるべ
参道途中、崖の中腹に咲く川津桜と桜の蜜を吸うメジロ
参道右側、「石廊崎特別地域気象観測所」
参道の様子 参道途中の明神鳥居
鳥居手前に置かれた岡崎現代型狛犬
鳥居に架かる社額 鳥居から更に参道は続きます
木々のトンネルを過ぎると目の前が開け、
眼前に石廊崎の灯台と遠州灘が見えてきます。

石廊崎灯台 灯台脇に建つ「石室神社参道」標
参道から見える穏やかなる遠州灘
参道眼下に見える熊野神社参道と岩礁・小さな渦潮
崖上の参道から見ると、社殿は海に突き出た崖の中程に岩にめり込んだように建てられています。

岬先端から見る社殿
完全に磐の窪みに建立されている本殿
本殿左に置かれている
役行者・小角像、仏像など
本殿向拝彫刻・龍
本殿木鼻・狛犬
岬先端から見る崖、社殿と参道
絵馬