八幡神社

賀茂郡松崎町小杉原143-1(平成21年2月21日)

東経138度50分42.27秒、北緯34度44分13.43秒に鎮座。

 この神社は小杉原バス停の東に小杉原公民館に隣接して鎮座しています。この日は何があるのか公民館前の駐車場には工事関係者の車が数台置かれ、参道右側の斜面では地鎮祭のようなものが開かれていました。私達がおじゃまかと思い石段を上がるのを躊躇していると、「どうぞごゆっくり参拝していってください。」と勧めてくださったので神社関係の方なのかもしれません。
 入口の朱の台輪鳥居を潜ると境内までは直登の石段が続き、狭めの境内には拝殿又は本殿鞘堂と思われる社殿が一宇建立されています。その中には中央に江戸後期に造営された一間社流造こけら葺の本殿が建立され、左右に名称不明の脇社が祀られています。

 御祭神は誉田別命で、慶長14年(1609)の棟札が残っていますから少なくともそれ以前の創建で、社宝に 町指定文化財の平安時代(後期)・秋草双雀鏡、鎌倉時代・菊花散蝶鳥鏡、三つ盛亀甲紋散双鳥鏡 等がある古社です。
 又、「松崎町役場HP」には
 「小杉原は民話、伝説の里といわれている。山がせまって、狭い谷あいに民家が軒を寄せあうようにある小杉原は、いかにも物語の山里という感じは深い。
下田から横川をへて、婆沙羅トンネルを越えると松崎の町へ下っていく。新しくなった道がいくつかの曲折を繰り返し、下ってきた最初の里が小杉原である。普通はバスの車窓に眺めたまま通り過ぎてしまう小さな山里である。
 『南豆風土誌』に、
「蛇ヵ狭 小杉原に在り。伝へいふ仁平元年(1811=西暦1151)甲斐猟夫某巨蛇に害せらる。其女子姉妹2人弓術を練習し、父の仇を報ぜんとし、来りて山中に在ること数旬、遂に大蛇を射て双眼を貫く。怪蛇怒りて将に姉妹を害せんとし疾走奔躍、過て断崖に鷆落し、巨岩の間に挟まり、苦悶七昼夜にして死す。里人其の蛇骨を納めて埋葬し、一寺を建立して蛇骨山大蛇院と称すると。今の大地庵、即、是なり。」
 また『増訂豆州志稿』に、仁平元年(1151)に、大蛇の骨を埋葬して一寺を建立して蛇骨山大蛇院といったが、後に蛇を地に改めたものであると記された大地庵は、正徳元年(1711)の洪水に荒らされたため、川の向こうの現在のところへ移されたものといわれる。大蛇の骨は、魔除けになるとの話が伝わり、大部分は持ち去られてしまったという。その大蛇の骨の一部は、現在岩科にあって、門外不出の秘物になっているということだ。
 小杉原のミヤノヤトには、誉田別命を祭神におく八幡神社がある。慶長14年(1609)の棟札がみられるので、300有余念前の古いものである。藤原時代の水皿・・・双雀鏡一、鎌倉時代の菊花双蝶鏡一、室町時代の菊花双雀鏡一、江戸時代の蓬莱鏡天下一一などの神鏡が社宝として伝えられている。
 大蛇を退治するにあたって、願をかけた八幡さまの社前に、お札にと小杉を1本宛植えた姉は、この喜びを知らせるため国許の甲州へと帰っていったが、美人のほまれ高かった妹のほうは、里人に引きとめられて、遂にこの土地に残ることになった。
村の若者たちは、社前に小杉を植えたえにしで、妹を小杉小杉ともてはやした。山野に植林の仕事に通う若い衆たちは、
「小杉小杉」
と、口ずさみながら植林したという。そして、周辺一帯の谷あい、山肌は小杉の原となり、それがいつか「小杉原」の地名へと変わっていったと伝えている。
 美人姉妹の植えた小杉は、その後見事な大木となり、この地に勢力を張った依田財閥が、徳川時代に入って、その巨杉を伐ち倒して、勢至丸、勢徳丸の千石船を建造し、海の産業、商売をより盛んにし、村の発展に寄与するとともに、依田財閥もより増大させたと伝えている。依田家ではそのお礼に、八幡神社に金灯籠を寄進した。安永3年(1774)の頃のことと伝えられている。この灯籠は、太平洋戦争のとき、供出されてしまったので、今はない。」と紹介されています。

社頭
参道入口の台輪鳥居
石段参道左側に祀られる末社 石段参道
境内入口
拝殿?本殿鞘堂? 拝殿にかかる額
本殿
左脇社 右脇社
根元が空洞になっている御神木・大楠