秋葉神社

神社本庁傘下だけで約400社あると言われている「秋葉神社」。その総本社格として、浜松市春野町、秋葉山の南東麓に鎮座する下社と、秋葉山山頂の上社、両社をあわせて「秋葉山本宮秋葉神社」と呼ぶ。

読みは「あきはじんじゃ」。関東人は電気街で有名な秋葉(あきば)があるので、ついアキバと発音したくなるのだが、アキバはあくまで江戸っ子訛り。しかしJR秋葉原駅はアキハバラ。多分西日本出身の多かったであろう明治政府の役人は江戸っ子の発音を無視したのでしょう。だから電気街をさす言葉は「アキバ」。地名の由来となった東京の秋葉神社はこちら。

下社から、秋葉寺(しゅうようじ)を経由して山頂の上社まで道があり、歩いて参拝できるようだが、多分ハイカー以外はいないと思われます。我々も失礼乍ら、車で参拝させて戴きました。

秋葉山本宮秋葉神社は、赤石山脈の最南端天竜川の上流にに位置する標高866mの秋葉山を御神体山として崇敬されてまいりました。初めて御社殿が建ったのは、今から凡そ1300年前和銅2年(西暦709年)と伝えられており、火の幸を恵み、悪火を鎮め、火を司り給う神様であります。明治以前は秋葉大権現と申し上げておりましたが、現在は秋葉山本宮秋葉神社と申し上げ、秋葉神社の総本宮として全国津々浦々から崇敬されております。
秋葉山公式サイトより。

あなたふと秋葉の山にまし坐せるこの日の本の火防ぎの神

海抜八六六メートル、国定公園秋葉山は千古の杉、檜がうっそうと繁り、俗塵を離れた秘境であり、街道随一の霊山です。

【御社号】
御社号は、上古は「岐陛保神ノ社」(きへのほのかみのやしろ)(岐陛は秋葉の古語)と申し上げたが、中世両部神道の影響を受けて「秋葉大権現」と称し、明治初年教部省の達で権現の号を改め「秋葉神社」となったが、昭和二十七年全国の秋葉神社の総本宮であるところがら「秋葉山本宮秋葉神社」と改称した。

【御祭神・御神徳】
御祭神は火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ)と申し上げ、伊弉諾(いざなぎ)、伊弉冉(いざなみ)二柱の神の御子で火の主宰神である。火の光は時間的、空間的に人間の活動の範囲を拡め、その熱は人間に冬の寒さをも克服させ、食生活を豊かにし、そのエネルギーは工業・科学の源となると共に、その威力は総ての罪穢を払い去るのである。光と熱と強いエネルギーを与えちれたこの神は、文化科学の生みの親として畏敬され、崇ばれて来たのである。御神徳は火の幸を恵み悪火を鎮め、諸厄諸病を祓い除く火防開運の神として、火災消除・家内安全・厄除開運・商売繁昌・工業発展の御霊験あらたかなるものとして、全国津々浦々から信仰されている。御霊験は奈良朝以来、縷々顕れ、御神威は海内に行きわたり、朝廷の御信仰篤く正一位の宣旨を賜って、正一位秋葉神社と申し上げる。

【上社・下社】
御社頭は、山頂の上社と山麓の下社とある。下社は、若鮎跳る気田川の清流に臨む山麓坂下(国道三六二号線)にあって、バスを下車して約百米で社頭に額づくことが出来る。上社は、天竜川畔芸名・秋葉ダム(国道一五二号線)から夫々登山自動車道に沿って約二十分で内項駐車場に達する。神域には老杉がうっ蒼と繁り、御本殿は昭和六十一年十月に遷座され、建坪百三十坪、総桧の入母屋流れ造りである。
神社のパンフレットより

上社はこちら

下社はこちら

江戸時代以前は、三尺坊大権現(さんしゃくぼうだいごんげん)を祀(まつ)る秋葉社(あきはしゃ)と、観世音菩薩を本尊とする秋葉寺(あきはでら、しゅうようじ)とが同じ境内にある神仏混淆(しんふつこんこう)で、人々はこれらを事実上ひとつの神として秋葉大権現(あきはだいごんげん)や秋葉山(あきはさん)などと呼んだ。古くは霊雲院(りょううんいん)や岐陛保神ノ社(きへのほのかみのやしろ)などの呼び名があったという。

徳川綱吉の治世の頃から、三尺坊大権現は神道、仏教および修験道が混淆(こんこう)した「火防(ひぶせ)の神」として日本全国で爆発的な信仰を集めるようになり、広く秋葉大権現という名が定着した。特に度重なる大火に見舞われた江戸には数多くの秋葉講が結成され、大勢の参詣者が秋葉大権現を目指すようになった。この頃山頂には本社と観音堂を中心に本坊・多宝塔など多くの建物が建ち並び、十七坊から三十六坊の修験や禰宜(ねぎ)家が配下にあったと伝えられる。参詣者による賑わいはお伊勢参りにも匹敵するものであったと言われ、各地から秋葉大権現に通じる道は秋葉路(あきはみち)や秋葉街道と呼ばれて、信仰の証や道標として多くの常夜灯が建てられた。また、全国各地に神仏混淆の分社として多くの秋葉大権現や秋葉社が設けられた。

1868年(明治元年)に明治政府によって神仏分離令が、1872年(明治5年)には修験宗廃止令が強行され、山内の修験派と僧派の対立も手伝って、三尺坊大権現は萬松山可睡斎(静岡県袋井市)に遷座、秋葉寺は寺領や宝物を没収され廃寺とされた。秋葉社も一旦は廃社とされたが、翌1873年(明治6年)、地元の人々の強い願いにより、祭神を火之迦具土大神とする秋葉神社として再建された。これに伴って各地に設けられた分社は分社としての地位を失い、それぞれの土地の事情で神仏分離令に従い、神社または寺として独立の道を歩むこととなった。

第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)、山頂(上社、かみしゃ)が山火事で山門を除く建物全てを焼失したため、秋葉神社は一時は廃社も同然となった。しかし、1986年(昭和61年)に現在の社殿が再建され、相前後して山頂に通じる車道の整備も成ったため、ここに名実共に秋葉山本宮秋葉神社として再興を果たした。
『ウィキペディア(Wikipedia)』より。

江戸時代「火防の神」として信仰を集めた、三尺坊大権現は修験宗廃止令の為、袋井市の可睡斎に遷座、秋葉寺も秋葉社も一旦は廃社となっています。したがって可睡斎では「火防守護の総本山」を称しております。