秋葉寺(しゅうようじ)

浜松市天竜区春野町領家848 (平成29年8月9日)

東経137度52分24.44秒、北緯34度58分25.71秒に鎮座。

この神社は、秋葉山の山頂を南東へ600m程下った辺りに鎮座しております。

御祭神 三尺坊(秋葉三尺坊大権現)、聖観世音菩薩

伝説によれば、秋葉山は養老二年(718)に行基が開いたとされ、初めは大登山霊雲院と呼ばれていたようです。本尊は行基作と伝えられる聖観音像で、れっきとした仏教寺院だったのです。弘仁年間(810〜823)に嵯峨天皇の勅願によって七堂伽藍が建立され、秋葉山秋葉寺と改称されたと云うことです。

慶応4年(1868年)の神仏分離・廃仏毀釈は各地の秋葉権現も対象となった。遠州秋葉山では秋葉権現が神仏いずれかで議論が長引いたが、明治5年、社寺行政を主管する教部省は「秋葉事記ニ聖観音〔行基作〕秋葉山権現〔当山鎮守〕祭神大己貴命〔或曰式内小國神社〕三尺坊〔秋葉同社ニ祭ル当山ノ護神ナリ〕トアレバ当山ノ鎮守ノ神ト三尺坊ノ霊トハ固ヨリ各別ナルコト明ケシ但シ式内小國神社ハ同郡ニハ有レトモ今宮代村ニアリテ秋葉ノ地トハ自ラ別ナレハ祭神ノ説ハ非ナカラ固ヨリ秋葉ノ主神ハ仏ニ非ル故ニ斯ル説モ起リシナルベシ」と秋葉権現は三尺坊とは異なる神祇であると判断し、「秋葉大権現之儀慶応三年十二月廿七日神階正一位ヲ被授候事故向後秋葉神社ト称シ可申事」と秋葉神社への改称が妥当とした。
祭神名について教部省は「秋葉事記」の大己貴命説は採用せず、修験の家伝を元に火之迦具土大神と称することが妥当と判断した。全国の秋葉権現を祀る祠堂もこれに準じて神仏判然がなされ、多くが神道の秋葉神社となったと推測されるが、「社寺取調類纂」には明治3年に迦具土神を祭神とする秋葉神社となっている事例も掲載されている。秋葉神社と秋葉寺に分離後の明治6年(1873年)大登山秋葉寺は無住無檀により廃寺となった為、浜松県の指導により三尺坊は可睡斎へ遷座した。
ウィキペディア より

東海自然歩道

秋葉山の説明

我々も秋葉神社より神門を潜り秋葉寺に行きました。可愛い巫女さんに道を尋ねると。そこの階段の裏手を下ると、すぐそこです。と言われましたが、帰りは結構きつい登りでした。

参道

山門

境内

本堂

仏像
参道

この遠信古道―のちの秋葉街道―よって運ばれていた重要な産物の一つに、塩があります。海のない信州に持ち込まれる塩は、日本海からの「北塩」と、太平洋からの「南塩」がありました。南塩ルートの主なものには、遠州からの遠信古道と、三河からの中馬街道の二つがあります。中馬街道の成立が戦国時代以降であるのに対して、遠信古道の誕生は古く先史時代に溯ります。
遠信古道は、遠州灘の相良から発して遠山地方を経て諏訪湖に続いています。南信濃村から出土する縄文時代の遺物からも、北は諏訪和田峠、南は東海地方との交通が窺えます。当時、遠州からは塩、信州からは和田峠の黒耀石などが運ばれ、遠山谷を行き交っていたことでしょう。
昭和十七年まで、秋葉寺の火祭りの際には湯立て神楽が行われていました。その湯に塩水が用いられていたという事実も、秋葉街道と塩との関わりの深さを物語っているようです。
遠山郷観光協会公式サイト より

五の鳥居跡
寛政10年(1798)に甲州の人々が寄進した銅鳥居で、秋葉寺38世住職任梁和尚の筆になる「護国嶺」の額が掲げられていた。いまは基礎部分と横たわる二本の朽ちた柱をのこすだけである。

神門

神額