岐佐神社

浜松市西区舞阪町舞阪1973

東経137度36分49.92秒、北緯34度40分48.8秒に鎮座。

 この神社は舞阪小学校の南約150mに鎮座しています。周辺は一面の住宅地ですが、綺麗に整備された境内にはしっかりと鎮守の杜が守られ、「因幡の白兎」続編として古事記に登場する、大国主命の物語を象徴するかのような赤石も置かれています。後日談の存在を知らなかった私は、大変面白く拝見させていただきました。

 御祭神:蚶貝比賣命、蛤貝比賣命
 祭礼日:水産祭・4月13日、大祓・6月30日、例大祭・旧暦9月14日・15日、七五三祭・11月15日、神宮大麻頒布始祭・12月1日、大祓・12月31日
 境内社:天白さま、春日神社、天照皇大神宮、津島神社他
 由緒:平安時代に書かれた『延喜式神名帳(927)』に遠江国六十二座・敷智郡六座の一として記載されており、神社覈録(かくろく)には「孝徳天皇3年(西暦647年、大化3年)11月、岐佐神社に天児屋根命)を祀る」と記されている千年以上の古社です。
 明応7年(1498)の地震津波では浜名湖の湖口が切れて今切れとなり、舞澤の郷は人家と共に水中に漂没したのですが、満目荒涼とした砂丘上の柳の古木の根本に『岐佐大明神』の小神祠を見つけ住民は社殿を建立して祀ったといわれています。
 これが現在の御鎮座の地でした。
 無事難を逃れた住民は付近の松原に部落を作り、現在の舞阪町のもとをなし、これを三十六屋敷といいました。
 天正2年(1574)以来の数次の本殿・拝殿再建の棟札を保存しています。
 慶長6年(1610)伊奈忠次公より御神領三石、慶安元年(1648)徳川家光公より御朱印状により神領五石を奉献され、明治維新に至りました。
 明治6年(1873)郷社に列し、大正9年神饌幣帛料供進指定社となりました。
 現在の社殿は大正元年の造営です。

社頭
社号標
「式内郷社岐佐神社」
入口の一の明神鳥居と
参道の二の明神鳥居
参道左脇に祀られる境内社 参道左脇に祀られる境内社
上の境内入口に建つ明神鳥居 上の境内への石段と玉垣
上の境内入口左右にいる大正13年生まれの狛犬
顔の造作や鬣が派手で、二本の牙がチャームポイントの狛犬です。
狛犬の拡大写真はこちらで
(大正13年(1924)9月建立)
拝殿
拝殿内の様子

拝殿屋根上にいる飛び狛さん
本殿鞘堂 本殿正面

社殿の傍にある赤石
この社の御祭神の活躍する古事記の物語(「因幡の白兎」続編)に登場する大国主命の抱いた赤石を象徴しているようです。
その赤石の後ろに造られた棺?のような形の石造物
参道左側に設えられた砂場のような四角い場所。 裏参道入り口近くに祀られた境内社鞘堂
鞘堂内の境内社:左から天白さま、春日神社、天照皇大神宮、津島神社
社殿の右前の御神木指定証と御神木
境内に建つ二基の旧社号標

社殿前から入口を振り返る

岐佐神社のご由緒
静岡県浜松市舞阪町舞阪一、九七三番地御鎮座

神社界の最も古い記録といわれる『延喜式神名帳(醍醐天皇延長五年西暦九二七年)』によれば遠江国六十二座 敷智郡(現在の浜名郡と浜松市の南西部)六座の一社として『岐佐神社』の名が記録されており、このグループの千百年近い古いご由緒を持つ神社を『式内社』と呼ぶ。神社かく「西冠に敷」録によると「孝徳天皇三年(大化三年西暦六四七年)丁未十一月岐佐神社に天児屋根命を祭る。とあり、亦、特撰神名牒には「蚶(きさ)貝比賣命・蛤貝比賣命を祭る」とある。仮に大化三年に岐佐神社が創建されたとしたら既に千三百五十有余年を経ていることになる。
遠江国風土記傳に「昔象島と号せし所以は此地海中に岐佐貝多く生ずればなり、後澤により廻澤と号す(現在舞坂という)其の澤も亦海と為る」とある。
これらを総合すると御祭神の『蚶貝比賣命』と郷名『象島』は『キサガイ』(あかがい)と関係が深いものと思われる。
岐佐神社の境内に産土神俗に御親様(護神様)といわれている神社がある。この御親様(護神様)には皇太神宮(天照大御神・豊受大御神) 春日大社(天児屋根命) 津島神社(須佐之男命)の御分霊をお祭りしているので神社かく録では「岐佐神社に天児屋根命を祭る」といったのであろうか。
『岐佐神社由来記』に
「明応の津波(明応七年西暦一四九八年八月二十五日)で舞澤の郷は人家と共に海中に漂没せり。この変に満目荒涼・四顧粛条たる東方の砂丘の上に柳の古木あり、その下に小神祠漂着あり。『敷智那岐佐神社』とあり。駅長浅野美時三士ハ屋敷の里人と其所に社殿を造りて之を祀る」とあり。現在の鎮座地である。(旧鎮座地は、現鎮座地の西方辨天島海底遺跡の付近であっただろうか?)

御祭神[蚶貝比賣命・蛤貝比賣命]に関する神話
奈良時代(七一二年)に書かれた『古事記』に、次のように記されている。
大国主命とその兄君の八十神とが恋争いの末、大国主命が八上比費命と結婚する。恨みに思った兄君たちは、「手問山から赤猪を追い出すから捕らえろ。」と言い付けて真っ赤に
焼いた大石を転がした。その石を抱き止めた大国主命は大火傷を負って死んでしまわれた。
悲しんだ母君の切なる願いで、神産薬日神の御子蚶貝比賣命は『あかがい』の貝殻で白い粉を作り蛤貝比賣命は『はまぐり』の水を出して練り合せ、乳汁のような膏薬を作り全身に塗り付けた。大国主命は、元の麗しい元気なお姿におもどりになられた。
棟札 天正二年(西暦一五七三)三月吉日本殿再建以来十一枚の棟札を保存す。

墨印状 慶長六年(西暦一六〇一)二月十四日伊奈備前守忠次公より本社神領として墨印石高三石の寄進あり。

朱印状 慶安元年(西暦一六四八)三代将軍徳川家光公より右神領を御朱印状(石高五石)に改め御寄進あり。
綱吉公 吉宗公 家重公 家治公 家斎公 家慶公 家定公 家茂公よりも同様の御朱印状を受ける。

祭禮
旧暦九月十四日・十五日
慶安元年(西暦一六四八)の『祝詞』、安永五年(西暦一七七六)の『幟建立発願』などの古文書によると江戸時代初期には現在のような祭禮が行なわれていたものと思われる。神輿には『文政四年巳歳九月六日(西暦一八二一)尾州名古屋橘町満國屋傳吉造』の記載あり。
参拝の栞より