乎豆神社

浜松市北区細江町中川4641-1(平成20年12月26日)

東経137度40分3.44秒、北緯34度48分37.03秒に鎮座。

この神社は、天竜浜名湖鉄道・気賀高校前駅の北200m程の辺り、気賀高校のすぐ裏側に鎮座しております。嘗ては気賀高校も境内だったと思われます。

延喜式内社 乎豆神社(おずじんじゃ)
 乎豆神社は 平安時代に醍醐天皇の命により編纂された法典「延喜式」の中の「神名帳」に名前が記されている古い由緒と格式を誇る神社です 江戸時代には幕府から社領十五石が寄進されていたと伝えられています
 祭神は 天照皇大神(内宮)と豊受姫大神(外宮)をお祀りしてあり 今日まで広く信仰されてきました
 現在 乎豆神社のある細江町中川地区は 五世紀には大和朝廷により「刑部の御名代」と定められ 平安時代の終りには 伊勢神宮の「刑部御厨」が置かれました 当神社の西方 約五百メートルにある「井通遺跡」からは「引佐」と墨書された奈良時代の須恵器が出土し 古代の「引佐郡家」との関わりも推測されています
 このような歴史のある地域に 当神社は祀られてきました
境内由緒書より。

延喜式内社 乎豆神社 六級社 旧郷社
御祭神
天照大御神 天手力男命 拷幡千千姫命 瓊瓊杵命
豊受大神 天児屋根命 天太玉命
 例祭日 十月十六日
 遠淡海(浜名湖)に注ぐ最大河川都田川流域では、刑部郷は最も大きな沖積平野で銅鐸八個の出土は静岡県史の初頭をも飾る有名なもので、往古引佐郡家の所在地とも言われ、古代より大いに発展した土地と言われている。
 刑部郷名は大宝律令に其の名が見え、人皇十九代允恭天皇の妃の名代として刑部を定むとも言われ、平安時代には伊勢神宮領御厨となった土地である。
 乎豆時代は、延喜式内引佐郡六座の一つで刑部御厨に奉斎された神明宮である。
 初祀は詳でないが旧家記録に依れば、已に寛平年中に鏡太鼓を奉納すとある。
 社伝によれば、境内一六八六坪、社領五町八反を有し、徳川氏に至り歴代将軍より十五石を寄進せられ、御朱印状に引佐郡神明社領と御明文ありて格別の札を以て遇せられ一村落の小社と異にして、領主より特に崇敬厚かりしは論なき処なり、往古頗る大社にして、大鳥居、二の鳥居、御前の鳥居、中門、西の宮鳥居、等を有し極めて荘厳なりし、とある。
 文化九年六月五日の大洪水に依り旧記悉く流出して見るべきものなしとあるが社宝に刑部郷神明宮作次第書並に刑部神明領坪付書あり、亦当社伝来旧式調書もある。神明宮作次第書によれば刑部村、祝田村、五日市場村、広岡村の人達が参加して宮作りをしている。
 又、正保年中領主太田備中守より神社再建に木材を賜ると云う。
 尚、社伝によれば気賀広岡並に浜松市江之島の神明宮は当社の御分霊なりと伝う。
 明治四十年一月十二日神饌幣帛料供進神社に指定せられ、大正十一年八月三日には郷社に列せられた。
境内由緒書より。

神社入り口と社号標

参道はこの後、右に曲がっています。嘗ての参道は気賀高校の方へ伸びていたのではないでしょうか。

直角に曲がると正面に拝殿 神楽殿

拝殿

外宮? 内宮?

本殿はこんな感じで並んでいます。

春日神社 稲荷神社 熊野神社
諏訪神社 若宮八幡神社 津島神社

御神木