屯倉水神社

浜松市北区細江町気賀1310(平成20年12月26日)

東経137度39分31.94秒、北緯34度48分3.23秒に鎮座。

この神社は、浜名湖の北東に注ぐ都田川。その河口に架かる曳舟橋の南側近くに鎮座しております。

屯倉水神社(みやけすいじんじゃ)の由来

祭神:豊受姫命・蒼稲魂命・罔象女命・大國主命・少彦名命・別大雷命・竜田二柱神・坂東三社神
屯倉神社は、往古伊福の郷気賀の庄間の脇にあった所である。屯倉とは古く大化の改新前、皇室の御料地であって収穫された米穀を収める倉を意味するものであった。
垂仁天皇二十七年の條に「興屯倉子来目邑」とあるを始めとしそれ以後代々の天皇は各國毎に屯倉を定め天皇にあらざれば領し得なかったのである。このような歴史をもった屯倉は大化の改新によって廃止せられ、その跡に屯倉神社のみ遺る。
建久元年(1190)源頼朝上洛の際屯倉神社の再興を願う。頼朝は遠江守義定に命じて水田八町歩(八ヘクタール)を寄進して再興をはかった後、建武二年(1335)足利尊氏都へ攻め登る。このとき弟直義は引佐山越を攻め登る。引佐郷は官軍方にて所々に喰い止めたが敵軍に放火され神社民屋ことごとく焼きつくされ屯倉神社も亦廃亡に期す。
延文五年(1360)より永正七年(1510)まで地震洪水十度余分けて永正七年の大地震には当地の湖水南岸崩れ湖海となる。
永禄十年(1567)社地を俄かに城郭となし堀川城を築く。このとき屯倉神社を油田東岩崎水神社に移す。これにより屯倉神社と改む。屯倉神社には東大鳥居と西大鳥居の二つの大鳥居があったが東大鳥居は現在大通りという地名があるが、これは東大鳥居がなまって大通りと呼んでいる。
永禄十二年(1569)奉行本田作左衛門重次の命により、油田の氏神として崇敬すべく、竹田、尾藤、斎藤に神職を命じ、屯倉神社を守護せしめ毎年の例祭には三家交代で年番を勤め祭主となって例祭を斎行してきたが明治二年(1869)まで続き後、神社総代制となり、総代によって神社の祭ごとを行うようになった。
明治十三年(1880)油田野末梅三郎氏の尽力により井伊谷村より神楽の舞取入れ井伊谷村野沢定吉氏に師事修得し例祭には舞を奉納することとなる。
尚細江神社の祭礼にも神楽の舞を奉納し現在では祭礼の重要な祭事となっている。
境内由緒書より。全文はこちら。

「屯倉」は『日本書紀』の表記。『古事記』・『風土記』・木簡では「屯家」「御宅」「三宅」「三家」とも表記される。 ミヤケのミは敬語、ヤケは家宅のことで、ヤマト政権の直轄地経営の倉庫などを表した語である。それと直接経営の土地も含めて屯倉と呼ぶようになった。 屯倉は、直接経営し課税する地区や直接経営しないが課税をする地区も含むなど、時代によってその性格が変遷したらしいが、詳しいことは分かっていない。 大化の改新で廃止された。
『ウィキペディア(Wikipedia)』より。

現在の住所は細江町気賀ですが、嘗ては油田と言ったようです。現在の地図でも油田地区防災センター等、見受けられます。屯倉神社が油田の水神社と一緒になり屯倉水神社となった経緯が書かれています。

永禄十年(1567)社地を俄かに城郭となし堀川城を築く・・・・と書かれている堀川城跡で検索しても、複数あり特定出来ません。川の近くは地形も変わり易く五百年前の場所は判らないのでしょう。

神社入り口と社号標

拝殿と本殿

天満宮

屯倉水神社の大杉

当社の儀は往古伊福の郷屯倉神社遷座所也推古天皇御宇毎に国屯倉を置く、今本所と申所也とあり、屯倉神社は、元「間の脇本所」(現在堀川城跡附近)にありました。永禄十年(1568)俄かに城郭とするため東岩崎水神社(現在の地)に移してこれより屯倉水神社と改めまあした。
徳川家の領土になるに及んで、天正年中奉行本多作左エ門は社中並に社領等定められ油田の氏神とし五穀成就、川方守護神と崇敬するように命ぜられました。当時の水神社は、樹木鬱蒼としており岩山に苦労して生へた神木がかなり繁っておったのが、時代の変遷に伴い樹木も整備せられ、由緒ある神社に残された、代表的な杉がこの大杉であります。原文はこちら。

何時までも残しておいて欲しい大杉です。

大杉と神社全景

境内前の都田川と曳舟橋