井伊谷宮

浜松市北区引佐町井伊谷1991-1 (平成21年10月31日)

東経137度40分15.4秒、北緯34度49分33.4秒に鎮座。

この神社は、建武中興十五社の一社で、浜名湖の北東、細江町井伊谷の町中に鎮座しております。後醍醐天皇の第四皇子で、建武中興の際に征東将軍として関東各地を転戦した宗良親王が、元中2年(1393)に73歳で歿した地と伝えられており、社殿の背後に親王の墳墓があります。その宗良親王を御祭神として、明治5年2月に創建され、当時は官幣中社だと云うことです。

御祭神宗良親王(後醍醐天皇第四皇子・宮内庁調)は今より約六百五十年前の南北朝時代に一品中務卿征東将軍として、この地を本拠に五十余年の間、吉野朝のために御活躍になられました。
その間遠江、駿河、三河、甲斐、信濃、越後、上野、美濃等に軍を進められ、信濃宮・上野宮・越中宮と尊称され、晩年再びこの地を訪ねられ元中二年八月十日御年七十三才にて薨去せられました。御墓は本殿背後に西に向ってたてられており宮内庁所管地であります。
明治元年明治天皇より当宮創立の勅使が仰出され同五年二月十二日御鎮座、同六年六月九日勅裁を以って官幣中社に列せられました。親王は武のみならず和歌に秀で、その苦難な御生涯の中であっても歌集「李花集」をのこされ又、準勅撰和歌集「新葉和歌集」の編纂など文化の面でも御功績をのこされました。
親王のどんな逆境に陥っても不撓不屈初志を貫き、希望を捨てず、ひたすら正義のために一生を捧げられた御精神、御遺徳は多くの人達に慕われ学問・心願成就・開運の神と信仰され尊ばれております。
境内由緒書より。原文はこちら。

宗良親王の終焉場所については、天文十九年(1550)に作成された京都醍醐寺所蔵の「大草の宮の御哥」と題された古文書の記述から、長らく拠点であった信濃国大河原で薨去したとする説が有力とされている(東京大学史料編纂所が醍醐寺文書から抜粋した「三宝院文書」)。一方、「南山巡狩録」や「南朝紹運録」では、元中二年/至徳二年(1385)に遠江国井伊城で薨去したと記されている。
また昭和15年に長野県旧長谷村常福寺にある宗良親王尊像の胎内から発見された文書から、1385年に大河原から諏訪に向かう途中の峠道で討ち死したとする入野谷長谷説がある。長谷村では、明治の中頃に十六弁菊花の紋章と宗良親王の法名である尊澄法親王の文字が刻まれた無縫塔が発見されており、胎内文書はかつてこの地にあった天台宗の古刹大徳王寺の住職尊仁が江戸時代に書き残したものされている。
その他に浪合説(子の尹良親王終焉の地)、河内山田説、さらには越後や越中で薨去したとの諸説がある。
柳原紀光の「続史愚抄」には、南朝紹運録や入野谷長谷説と同じ1385年(元中2年)8月に没したと記されており、花山院長親の「耕雲百首」にある「故信州大王」との記述から、元中六年/康応元年(1389)以前に没したことがわかる。
長野県大鹿村大河原釜沢にある宝篋印塔は宗良の墓と伝えられており、静岡県の井伊谷宮も宗良親王を祀っており、墳墓が残されている。
『ウィキペディア(Wikipedia)』より。

神社入り口

「官幣中社井伊谷宮」の社号標と一の鳥居

境内案内図。北は下となっています。

参道

二の鳥居と神門

拝殿

本殿

拝殿と本殿

井伊社鳥居

井伊社拝殿と本殿

親王の終焉場所については、異説もあるようですが、宮内庁公式見解は此の地となっているようです。

入り口 陵墓

慈母観音石

親王のお姿が描かれた絵馬

御神木