許禰神社

袋井市木原 (平成21年6月30日)

東経137度54分18.7秒、北緯34度44分26.33秒に鎮座。

この神社は、旧東海道が間も無く磐田市に入ろうかという、袋井市の西外れに鎮座しております。

許禰(こね)神社(木原権現社)
 遠江では平治元年(1159)以後、しばしば熊野新宮を造営する費用をまかなうための国に指定されたので、多数の熊野神社が建てられました。袋井市域でも、土橋で熊野権現社、松袋井で熊野十二社神社が現在でも祭られていることから、古代末期より和歌山県の熊野山とはたいへん深い関係にあったことがわかっています。
 木原の許禰神社は、かつては木原権現社と呼ばれ、古代末期に創建されたと考えられています。許禰神社は、古代の神社名帳(式内社)のなかに見られる神社で、一説には古代の許禰神社が木原権現社になったともいわれています。
『木原権現由来記』という全長17mもある巻物が残されています。由来記には、ある日木原の子供に熊野の神がのり移り、この地に熊野の神を祭れば、洪水を防ぎ、穀物の実りを豊かにするお告げがありました。天災に苦しんでいた村人は早速に熊野の神を祭った。これが木原権現社の由来だと記されています。当時の民衆が神様に対して切なる願いを記録した貴重な資料となっています。
袋井市教育委員会。

祭神:伊奘冊命、速玉男命、事解男命

由緒沿革:
木原権現由来記によれば文武天皇大宝二年紀伊国熊野権現を勧請して社を建て徳川家康慶長五年旧社領70石を再興し、同10年神殿を造営せらる。明治六年郷社に列す。
神社名鑑より。

木原権現由来(原文のまま)
木原権現勧請之事
木原の社は熊野権現なり、人皇四十二代文武天皇の御宇木原郷に一河の長流あり強雨のをり、ことに水たかくして田畠をひたす、邑民悲しひ大宝二年(約1300年前)春三月里人各集り長堤を築く堤置きたる芝のうへに白幣あらはれ、いつともなく烏余多くむらがり来て其のよそほひ常ならざれば皆人あやしき心地し侍る。
その折から傍に在りける童児忽にはしりて曰く我ハ是熊野権現なり、此所わが霊地にして鎮座する事久しといへども世人知事なし、今此地を犯事なく我を祭ハ、水亡の難を除き、いよいよ五穀栄へ国民穏かなるべしと宣ひ畢而あからせ給ひ皆人寄異の思ひをなして有難事かぎりなし。
則木原のなにかしあるし託宣にまかせ其の地をあらため御社を建て件の白幣を納木原権現と称し、各うやまひあがめまつる、
夫より五穀ゆたかに国民饒に日々に神徳をまし給ふ誠にありかたかりし事ともなり。

御神体之事
昔天神七代にあたらせ給ふを伊奘諾尊、伊奘冉尊と申奉る、此の二神の尊国土を開き、万の物をうみ給ふ、其至極広大の功徳すでに成て後、伊奘冉尊神退ましけれハ紀州熊野有馬の村に納めまつる熊野大神是なり、此神の御子を速玉男其の弟を泉津事解男と申奉り是熊野三所阿権現と云、

由緒書原文はこちら。

社号標と神社入り口

鳥居

神橋と神門

拝殿

本殿覆屋

八幡宮・須賀神社

稲荷神社

左より・八面神社・菩比神社・天白神社・社森神社・白山神社・天満宮・神明宮・熱田神社・居森神社・住吉神社・稲荷神社・國守神社

厳島神社(弁天様)。明治になり木原権現社が佛語でけしからんと言われ、許禰神社と改めたように、ここも御祭神を、弁財天から市杵島姫命に換え、厳島神社と名称変更をしたようです。

御神木の楠