山宮浅間神社

富士宮市山宮1(平成20年6月28日)

東経138度38分19.24秒、北緯35度15分56.93秒に鎮座。

この神社は、JR西富士宮駅の北東5km程の辺り、富士山頂の南西に鎮座しております。

浅間神社御由緒
當浅間神社は通称山宮と呼ばれ、往古霊峰富士を神として仰ぎ崇めた人々が山の頂から直接山体を礼拝した。神聖な霊域で始めから社殿が無く敷石は祭事執行の際神官参列者の配列を考慮したもので、最も古い形式の神社である。
一、御祭神
御祭神は木花之佐久夜毘売命であるが、古くは富士大神を申し上げ、後には浅間大神とも申し上げた。
二、御鎮座の由来
當浅間神社は現在富士宮市宮町に鎮座する元官幣大社浅間大社の元宮でその御鎮座は極めて古い。
浅間大社の社記によると人皇第十二代景行天皇の御代皇子日本武尊が勅命により東夷を征伐される途次、駿河国で賊の攻撃に遭われた際陣中で富士の神を祈念され無事、災難を免れられた。尊は深く富士の神の恩恵を感謝され神霊をこの山宮に祀られたと傳えている。更に、社記には平城天皇の大同元年(806)征夷大将軍坂上田村麿が勅命により東夷を征討した帰途、浅間大神の神威を畏い奉って現在浅間大社の在る地(大宮と称した)に壮大な社殿を造し神霊を山宮から遷し奉ったと傳えている。その後、當社と浅間大社との間柄は山宮(元宮)里宮という密接不離な関係を保ちつつ悠久今日に及んでいる。
三、特殊神事
古くから當社と浅間大社との間には春秋二季に山宮神事と称する極めて神秘的な行事が傳承されてきた。この神事は里宮である大宮の浅間大社の大祭礼の行われる四月と十一月の初申日の前日である未日に行われた。當日未の刻(午後二時)大宮司以下神職等が神霊の宿る御鉾を奉じ行列を整えて山宮に詣で深更まで諸祭儀を厳修し一夜籠屋に参籠する。翌朝丑の刻(午前二時)神霊の宿った御鉾は木之行事という役職の左肩にかつがれ行列を整えて山を降る。
還幸の道中は深夜でも一切燈火を用いなかったという。大宮の浅間大社に着御された御鉾は本殿内陣に鎮め奉り神事は終わるのである。かくして申の刻(午後四時)から浅間大社の大祭礼が奉幣使を迎えて盛大に執り行われるのが慣例であった。因に浅間大社の大祭礼に当り御鉾が山宮に御神幸されるのは元の宮の神霊即ち富士の大神が永久に御安泰に鎮まりますように祈念するものであり、里宮の大祭礼は春秋一季農耕の安全を祈願し、豊作を感謝するための神事であったと考えられる。
四、御祭礼日、十月十九日
境内由緒書より。

最初は、富士山の溶岩流先端の溶岩露呈部分を磐座とし、祭壇をもうけ、ご神体の富士山を拝む場所として自然に出来たのではないでしょうか。現在でも社殿は無く、富士山そのものを拝むようになっています。参道はほぼ富士山頂に向いており、古い時代には遥拝所から間近に富士を望むことができたのかも知れません。

参道入り口と社号標。礼拝所迄は200m程。

参道途中

山宮浅間神社
 美しい富士山も、ある時期突如として大爆発を起こし、人々の生命財産を奪う恐ろしい山であった。その火を噴く不思議な力を人々は畏敬し、山そのものを御神体として祀り、噴火の度に富士山を拝み、朝廷でも山の神の位を上げ、使いを派遣して富士を拝ませた。その富士山を拝んだ場所が山宮浅間神社だと考えられている。
 山宮浅間神社には本殿がなく、いつのころか、この神社に神様を祀る本殿を建てたいと村人が本殿造りに取りかかった。しかし、上棟式までこぎ着けたとき、大風が起こって吹き倒されてしまった。こうしたことが何度か起こり、「山宮浅間神社に本殿を造ろうとすると、風の神の祟りがあるので本殿を造ってはいけない」というようになった。
 こうした伝承に託して、昔の人々が古い信仰の形を今に伝えてきたのである。
富士宮市教育委員会

参道途中の割拝殿

参道中央の「鉾立石」。里宮から山宮へ祭神が里帰りする「山宮御神幸」。神霊の宿った御鉾は木之行事の左肩に乗せて運ばれるが、途中で休憩をとる際はこの「鉾立石」に安置したという。

遥拝所

今も地元の人達の厚い信仰があるようです。熱心にお祈りをされていました。

遥拝所

御神木

古い信仰の形を今に伝える山宮浅間神社。深い緑に囲まれた静寂な空間です。