村山浅間神社

富士宮市村山1151(平成20年6月28日)

東経138度40分8.93秒、北緯35度15分27.27秒に鎮座。

この神社は、JR富士宮駅の北東5km程の辺り、富士山頂の南西に鎮座しております。嘗て富士の各登山口起点には浅間神社が祀られていたが、この神社もその一つ。現在ここからの登山道はないが、何と明治の廃仏借毀釈で、登山道も付け替えられたようです。現在でも境内に富士山興法寺大日堂があり、神仏習合の姿をとどめています。

村山浅間神社
 平安時代末、僧末代が富士山を山岳修行の場として選び、富士修験の元を開いた。鎌倉時代には、僧頼尊が村山で富士行を創始したといわれ村山の地に富士修験が定着した。
 村山浅間神社は、富士修験の道場として大日堂(興法寺)を中心に発展してきた。室町時代以降、周辺にいくつもの坊がつくられ、村山口富士登山の基地として、山伏(修験者)を先達とした多くの富士道者(登山者)を集めていた。また、登山期間が終わると、山伏が各地を回って火伏せや虫封じ・安産などの祈祷をしたり、お札を配ったりした。
 明治維新の廃仏借毀釈や、登山道の付け替えで、村山浅間神社は衰微してしまったが、今も大日堂と浅間神社を合わせて祭る神仏習合の姿をとどめている。また、水垢離場や護摩壇なども残され、昔を物語っている。
富士宮市教育委員会

神社入り口と社号標

富士根本宮村山浅間神社とありますが、嘗てこの地が。富士山修験道の中心となった所で、江戸時代には富士講の宿坊が多くあったようです。

神社正面。鳥居の額にも富士根本宮と書かれています。

参道石段の左右に居ます。怪獣のようです。拡大写真はこちら。

建立年は不明ですが、尾が左右に流れているので、江戸後期かと思います。

拝殿と本殿

富士山興法寺大日堂
文武天皇の大宝元年(701年)「役ノ小角」が勅命により富士山中水精ケ岳より、浅間神社を現在地に奉遷された時に建立し、富士山仏化の拠点としたのが始まりで、久安年中に至り、高僧「末代上人」が村山修験を確立し大日如来を祭り、登頂活動の拠点とした。京都聖護院の直系寺であった。
境内由緒書より。

今でも、富士山・山開きの7月1日には京都聖護院から山伏が来て問答を行い、護摩を焚き登山の安全を祈願するようです。これらは修験道霊場であった頃の名残だと思われます。

中に「大日堂にまつられている仏像」と書かれた写真がありましたが、如何せん暗すぎて良く写りません。富士宮市公式サイトで一部を紹介しています。

護摩壇
村山の法院が、富士山に入峰修行のため入山する前夜「旧暦7月21日」と修行を終え村山に帰山した「旧暦8月16日」の昼に、「役の行者」の修法により、国家の安泰と天下泰平・五穀豊穣を祈願して護摩を焚いた聖壇。村山修験独特の修法で、当日は四界の信者・善男善女が寄り集まり境内を埋め尽くした。
境内由緒書より。

神仏習合の雰囲気を今に伝える石仏や塔。石碑は「富士八大金剛童子」。

水垢離場
富士山に入山する道者が、村山の法印大先達の指導により、大日堂東方奥の「竜頭ケ池」の聖水を引いた人口の滝に打たれて身を清め、不動明王の守護を願い、山中の安全を祈願した所。
由緒書より。

嘗てこの地が富士登山で賑わっていた頃、
道端に置かれた、富士山道しるべ。

氏神社
村山修験の開祖「富士上人末代」は「役ノ行者」修法を継ぎ幾百回の登頂を成し、頂上に大日寺を建て、山岳仏教の基礎を固め、自ら「大棟梁権現」と号し、村山の地にて即身仏となって当山の守護神となった。当社はその霊を祭り、氏神社として氏子の信仰厚く、高嶺聡鎮守と称する。
境内由緒書より。

社殿は最近建て替えられたようです。

境内の御神木

嘗て富士修行の中心として栄えた、村山ですが、江戸時代には富士講の祖と呼ばれる長谷川角行が、富士山信仰を独自の教えを持って説き、その教えが食行身禄や村上光清といった弟子の活躍によって広く庶民に受け入れられるようになり、富士山は修行の山から参詣という登拝山へと移行していったようです。又江戸からは、須走 、須山、吉田といった東側に中心が移り衰微していったようです。それに最後のとどめを刺したのが明治の廃仏毀釈かと思われます。

でも現在地元の有志の手で復活の兆しがあるようです。新しい社号標の「富士根本宮」の文字にもそんな意味があるのでしょうか。「水ごり」とか「村山古道」が復活しつつあるようです。