安来神社

安来市安来西御幸通1404(平成17年11月27日)

 この神社はJR山陰本線・安来駅の西南西約750m、線路南の、車がやっと通れる細い路地に面して鎮座しています。
 随神門らしき建物がとても変わっています。その奥の境内には大きな拝殿と立派な本殿、数々の境内社が所狭しと建ち並んでいました。今まで見てきた出雲地方の神社とは趣を異にしているように思われます。でも残念ながら、案内がなかったので創建、由緒については不明です。7月に祇園大祭があるので八坂神社系列の神社かと思われます。ですから御祭神は素盞嗚尊と思われます。
 行事、例祭は分かりましたので記しますと、まず1月5日に「とんどさん」を行います。これは町内まわりの当番が歳徳さんの飾り付けをし、4日の「宵宮」行事を行い、安来神社とご近所の下山神社の神官が町内の歳徳さんを廻り、最後に新町で祈祷を行います。5日は朝から神輿やドウ、太鼓で町内を歩き、その後竹に火をつけて恵方に倒す、というものです。 7月14日、15日には「通称ヤッホー神事」といわれ市民に親しまれている「祇園祭」が執り行われます。14日夜に東、西御幸町内が宵宮行事を行い、翌日子ども達が法被姿で自分の名と町名入りの提灯を持って、安来港に集まり、海水で身を清め「ヤッホヤッホ」といいながら練り歩き、神社で無病息災を祈願し、「神輿」車で町内を廻るというものです。

神社入り口 とても変わっている随神門らしき建物
境内入り口の石工さんの名前から江戸時代建立と思われる出雲構え獅子
(石工・茂右ヱ門)
大きな拝殿 立派な本殿
拝殿の木鼻・鳥。何の鳥でしょうか?
多分昭和期建立と思われる出雲構え獅子
境内社・稲荷神社 境内社・荒神と御幣
稲荷神社の神使い狐。ここの狐さんも優しい顔で首輪をしています。
境内社 境内社・
武内大神、天照大御神、八幡大神
境内社・武内大神、天照大御神、八幡大神前のかなり古い出雲構え獅子。
苔むして貫禄は出てきましたが、阿吽とも顔の表情が分からず、尻尾が無くなっています。
境内社・村上神社 境内社・船玉神社
境内社・船玉神社の出雲構え獅子。
ずっと軒下に居たせいか、年代の割にはとても綺麗に保存されています。
(文政10年(1827)10月吉日建立)
何処にいたか忘れてしまった出雲構え獅子。阿の尻尾と顔が崩れています。
高見の境内社 御神輿二基
随神門らしき建物を境内から見た様子


ヨッシーの神社豆辞典
今回は神社と直接関係ないのですが、ここ安来市の歴史をお勉強してみました。

安来市あたりは弥生〜古墳時代の間にかけて出雲に強力な王権が発生しましたが、その中心地(東部出雲王朝)だったと言う説があり、全国最大級の方墳である造山古墳群や出雲文化圏特有の四隅突出型墳(発掘数県内最多)などを含む多くの古墳が発掘されています。古事記、日本書紀においては根の堅州国(ねのかたすくに)あるいは根国(大和島根、島根県の語源とされています。)と呼ばれスサノオノミコトが統治していた地方に該当するのではないかとも言われており、市内には出雲神道の流れを汲む古社も多いのです。地名が文献上登場したのは天平6年(西暦733年)の出雲国風土記に「出雲国意宇郡安来郷」とでていて、おそらく神代からの名称であり、都市名では最古の部類の属します。この当時より安来の山中や船通山周辺を源とするオロチ河川群の周辺ではたたら吹き(タタラ=多多良、鈩、踏鞴、鞴韜)、たたら製鉄と呼ばれる古代製鉄法が盛んであったがためオロチ伝説が生まれたとされています。このヤマタノオロチは退治され埋められた後、八本杉を植えた伝承が隣接する奥出雲町、雲南市、鳥取県日野郡をはじめとするオロチ河川群の周辺地方等に残っていますが、この八本杉(八杉)が安来の語源とする説もあります。そのため市内だけでも数十以上(伯太町、広瀬町)も存在するたたら製鉄の遺跡や周辺地方には日本刀の最古の刀匠、伯耆国安綱の工房跡碑(鳥取県西伯郡)などもあることから、古くから冶金技術が発達していた一帯(旧名;意宇郡、能義郡)の中心都市であったことが伺えます。このような背景から映画もののけ姫の舞台のモデルともなりました。

中海(錦海)に面した天然の良港、安米湊はふるくは朝鮮半島との交易も盛んであり、市内に数多くある古墳からは当時の出雲地方としては珍しい天叢雲剣を髣髴させるような鉄製の刀剣、鉄器類が出土しています。そのため、神在月には出雲を目指す神様が安来湊にまず集結し、鉄の買い付けを行うというような伝説も残っており、古代出雲の海の玄関口として反映したことが伺えます。戦国時代に至っては尼子氏の物資輸送、海戦拠点ともなり、有名な戦国大名尼子氏対毛利氏の激烈な戦いが繰り広げられました。この中で有名な悲劇の名将山中鹿介らが活躍しその様子は池波正太郎著「黒幕」等の数々の小説、物語の題材となっています。 江戸期に入ると尼子・毛利両氏が営んだ月山富田城から松江城に出雲支配の中心がうつり繁栄に一時翳りがありました。

しかし江戸中期より日本の商品経済が発展し北前船による交易が盛んになると、安来湊が重要港となり山陰地区の和鉄・和鋼を一手に取り扱う一大商都と成長しました。当時の国内の鉄生産量の実に90%以上にものぼる素鉄・素鋼品を取り扱い繁栄を極めました。しかし、明治後期に入ると、たたら製鉄法は衰退の危機に直面し、たたら師たちが日本初の民間鉄鋼会社「雲伯鉄鋼合資会社」を設立しました(製鉄業と一線を画し、近代鉄鋼産業の発祥と定義する説もある。)。その後、その会社は日産コンツェルン総帥鮎川義介による近代技術の導入、その後の伝統製鋼法の近代的画期、高級特殊鋼への特化を経て現在も鋼都としての存在をゆるぎないものにしています。これら鉄鋼(和鋼(玉鋼)、和鉄)の歴史については、安来市立和鋼博物館でお勉強しましょう。

(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

私達一般人は安来というとすぐ「安来節」を思い出す程度ですが、古くから朝鮮半島との交易も盛んで、また冶金技術が発達し、古代からの有力な部族が住んでいた地域だったのですね〜。もっと詳細な歴史のお勉強もせねば…と反省しました。