安来市広瀬町広瀬1431 (令和6年6月22日)
東経133度10分36.99秒、北緯35度21分57.79秒に鎮座。
この寺院は、安来市役所広瀬庁舎の北北東500m程の辺り、広瀬町広瀬の街中に鎮座しております。
御本尊 釋迦牟尼仏
由緒
洞光寺の開創年代には諸説あるが、最も古い年代が文正年中(1468)である。備後国高野山金尾に尼子清定公によって開創されたと思われる。
また、清定公(経久公)は、出雲国月山富田城北麓の小山を旧地金尾と名付け、高野山より移築したのを文明年中(1469〜1488)とする記録もある。
経久公は、伯耆国定光寺4世大拙眞雄和尚に深く帰依し、軍務の暇があればしばしば参禅して教えを乞うていた。富田金尾に洞光寺開創に際しては、師である大拙眞雄和尚を拝請して開山第1世となした。以後、永禄9(1566)年、尼子義久公が毛利の軍門に下り、富田城を明け渡すまで4代に渡って定光寺より住持僧を迎えている。近隣の国人を従え、中国11州に覇を唱えた経久公は、天文10(1541)年11月13日、84歳で富田城に卒した。4世竹堂利賢和尚の世代であった。
慶長16(1611)年、堀尾吉晴公による富田城の松江移城の際、洞光寺も移転した(慶長13年)。その後、松江にも残ったが、松江初代藩主・松平直政公次男近栄公が広瀬藩を開く頃、再び金尾の地に帰り、清定・経久両公の墓所を守ることになったと思われる。
金尾洞光寺は、度重なる大洪水に大打撃を受け、寛永年中(1624〜1643)に現在地へ移転を余儀なくされた。明和6(1769)年の火災によって伽藍を全焼、古記録も焼失してしまった。現在の本堂は、寛政元(1789)年に落慶入仏供養をされたもので、二百数十年の風雪に耐えている。8代広瀬藩主・松平直寛公に、「山陰の禅窟」と謳われ、近代に至るまで曹洞の禅風を存分に揮った。
曹洞宗公式サイト より。
寺院入口
本堂
天神宮鳥居
参道
境内入口
境内入口の狛犬。拡大写真はこちら。
(天保13年(1842)建立)
拝殿
拝殿内部
境内片隅、一体だけの狛犬。拡大写真はこちら。
(年代不明)