西八幡宮

安来市伯太町西母里123 (平成26年7月23日) (令和6年6月22日再訪)

東経133度16分39.48秒、北緯35度20分42.39秒に鎮座。

この神社は、市役所伯太庁舎の南800m程の辺り、母里の街並の南側山地の麓に鎮座しております。

御祭神 誉田別命・須佐男命・菅原道真・大己貴命・田心姫命・湍津姫命・市杵島姫命・気長足姫命

由緒
当社の縁起書によりますと、應永12年(西暦1405)又一説に天授元年(神明帳)母里の郷司廣江氏の弐男廣江兵庫が遠檀原に城郭を築き、西母里を守護するに当たり勧請崇敬したと伝えられる。はじめ遠檀原に社殿を建立したがのち現在の地に奉遷した。山号御笠山、山裾の地域を宮垣と伝えます。「東西両八幡宮口碑伝承」高倉天皇の御代出雲国主悪七兵衛平景清広瀬にありその臣小畑権太夫実家母里の郷司として亀遊山に城砦をかまえて居るに、承安2壬辰年(西暦1172)小畑権太夫館より南方に当たって夜々怪光を放つものの有るを見て怪しみて、士卒を行かしめ真偽を糺さんとするに、現在神宮寺の少し下った所に大なる老松あり、その枝を窺うに、白羽造の箭一雙懸り、士卒これの造りは普通で唯光輝を見て持ち帰り、小畑権太夫実家に告げる、小畑権太夫は、即ち此の箭は武神八幡宮の神箭であるわが家武運長久の瑞兆であろうと喜び初め居宅に小社を建立祀ったが、やがて小畑権太夫は、心中に神威を恐れ、広く土地の人々に崇敬なさしめんと思い、箭の懸かかった松の近く浄地を撰び、八幡宮を建立して広く人々に参詣せしむることとした。今に此の地を「宮の谷」と称し、宮の跡を「もと宮」と云って礎石を残す。白羽の矢の懸かる松は平たく繁茂せる大樹にて俗に「平松」と称した松で、現在此の松の有った地域を平松と云う。降って慶安2年(西暦1649)現在鎮座地南光山に奉遷したと伝えられるが、一説には今少し古い事であろうと、とにかく奉遷の際に南方に異光を認めし因みにより南光山としたのは明らかである。後小松天皇應永年間、母里郷司に廣江氏来たり、廣江氏には3人の子有り、長子を治部少輔、次男を兵庫、末子を市弥と呼んだ。屡合戦起こり、斉藤摂津守と戦闘のとき廣江氏の軍苦戦に陥り末子市弥は遂に闘死した、この上は神威を借りて敵を破るの外なしと治部、兵庫、相倶に中心八幡神に祈願したところ、俄に南光山に黒雲湧きおこり摂津守の陣を覆や黒雲変成して数百の白羽の箭となって陣を襲い廣江軍の奮闘とともに遂に勝利得た。以後は前にまして八幡宮を崇敬するところとなった。伝承には、この頃東八幡を現在の地に奉遷したとも言われる。しかして後、次男兵庫は分家せしめ居砦を卯月遠檀原に構え西母里を守る事となったが、然るに何故か此の後兄弟不和となり、兄治部少輔は弟兵庫に東八幡宮に参拝するを禁じたので、兵庫は、されば我も又建立せんとて應永12年乙酉(西暦1405)(又天授元年との説も有り)西八幡宮を建立した。伝承には、初め卯月遠檀原の今日「社祉」と称する所に祀り、祭礼の節は、現在鎮座地御笠山に続く「御幸山」に神輿の行幸を行って遥かに東八幡宮に対抗したと言い、又一説に現在鎮座地に建立して常に垣をめぐらして、東母里の者達を詣でさせずと、今にその跡を「宮垣」と言えるはその証と言えるが、今は明らかに成しがたい。
島根県神社庁公式サイト より。

街中に立つ一の鳥居

神額

二の鳥居

三の鳥居。ただし参道その手前より左に曲がります。

参道入口。右手は三の鳥居。

参道

四の鳥居前の出雲型狛犬。拡大写真はこちら。
(天保13年(1842)建立)

四の鳥居

随神門

隋神様

随神門内の木造狛犬

拝殿

境内入口の狛犬。拡大写真はこちら。

(寛政8年(1796)丙辰5月建立)

拝殿内部

本殿

左右の脇障子


稲荷神社

お狐様

拝殿

本殿


末社

末社を護る狛犬。拡大写真はこちら。

(石工 乙右衛門 萬延2年(1861)辛酉正月建立)

末社

末社

脇参道入口

脇参道を護る狛犬。拡大写真はこちら。

(年代不明)