志都岩屋(しづいわや)神社

邑智郡邑南町岩屋1714 (平成29年7月25日)

東経132度33分33.67秒、北緯34度49分40.78秒に鎮座。

この神社は、広島県堺に近い岩屋の街外れ、人家もまばらな山中に鎮座しております。

御祭神 大己貴命・少彦名命
合祭神 応神天皇・神功皇后・玉依姫命

由緒
当社の発祥は縄文文化の時代から巨石崇拝にあり、鏡岩を仰いで累々たる巨石の間に小祠を建て厳威に対する素朴な信仰であった。いつの頃か出雲族の来住が始まり、ここを拠点として国土経営を始め大己貴・少彦名二神に確定されるようになった。志都神社は「八面神」と関連し、農耕神と、タタラ神とが融合した古代信仰の場でもあった。万葉集、三の巻、生石の村人眞人の歌「大汝少彦名(おほなむち すくなひこな)のいましけむ 志都の岩屋は幾代経ぬらむ」と詠まれている。平安時代に仏教の興隆につれて我が国固有の山岳信仰と仏教との結合が進められ、修験者の霊場となった。弥山・ひじり屋敷・古志都・奥の院・行場岩・廻・岩・飛岩など巨岩にはそれぞれ修業の内容をあらわす名称や修行の居所名がつけられている。江戸時代には国学者本居宣長も玉勝間に「石見国なるしづの岩屋」の記事がある。出羽代官広野国右衛門は元禄13年(1700)に「寛文(1661〜1672)の頃鉄穴溝から5cmの金仏が発見され、その由来記録板」を残し、神徳を讃え神社の興隆を祈念している。
こうした歴史的背景には弥山(標高607m)の南東斜面一帯に分布する粗大な節理面を持つ黒雲母花崗岩が屹立・累積する巨大な岩城群と岩塊流・行場岩と石割松など地形学・地質学・植物学上極めて貴重な自然景観が存在する。
境内由緒書き より。

参道入口

社号標

参道

拝殿

本殿と鏡岩

こよりと鏡岩

万葉歌副碑