高田神社

隠岐郡隠岐の島町都万1814 (令和5年10月12日)

東経133度14分23.75秒、北緯36度11分40.71秒に鎮座。

この神社は、隠岐空港の西北西8km程の辺り、都万の街外れに鎮座しております。

御祭神 国常立命・小花姫命

由緒
高田大明神ともいう。南北朝末期の至徳年間(1384〜1387)に、佐々木隠岐次郎左衛門の娘「小花姫」に神託があって、高田山頂の鳴沢の池からご神体が現れたという。春はこの神社の祭礼に神輿(みこし)をねったり、舞楽が演じられたりして、多数の見物人が集まり賑わった。
高田神社の右手の小山には小花姫の乳母の墓があり、子孫に当たるという佐々木氏がこれを祀っている。
一方、京都四条、金蓮寺の浄阿上人がこの社に泊ったとき、夢の中に「花にいま鳴沢池の蓮(はちす)かな」という発句の神示をうけたので上人は、都で二条良基など公卿、僧侶などの歌人にたのんで、百首和歌と千句連歌をつくってもらい、至徳4年(1387)高田神社へ寄進した。千句連歌はすでに失われたが、百首和歌は冒頭に関白二条良基の「春寒き山は高田の高ければ雪の下より立つかすみかな」という一首で始まり、現在でも高田神社の社宝(県指定文化財)になっている。
しまね観光ナビ公式サイト より。

昔、中里に住む地頭の娘の小花姫が、西郷町の旧家へ行った帰りに菜踏坂のあたりにさしかかったとき、不思議な神楽の音に誘われて聴聞坂から高田山に登ったきり帰りませんでした。
翌朝、探し求めて高田山に登ったところ、鳴沢の池のほとりで御神像めいたものを抱いて半狂乱の小花姫を見つけ、連れて帰り、持ち帰った御神体を祀ったのが「高田大明神」の始まりだといわれます。
一方、高田大明は至徳年間(1384〜1386)に、たまたま参籠した僧侶の夢の中に、「花はいま 鳴沢池の はちすかな」という発句を示され、このことが都の貴族や殿上人に伝わり、「百首和歌」「千句連歌」が浄書奉納されました。
「百首和歌」は冒頭に関白二条良基の「春寒き 山は高田の高ければ 雪の下より立つ霞かな」という一首を載せて始まり、現在では高田神社の社宝になっています。
境内由緒書き より。

参道入口

鳥居

入口左右の狛犬

(年代不明)

随身門

随身門前の狛犬。拡大写真はこちら。

(年代不明)

随身様

拝殿

拝殿内部

本殿


末社