隱岐神社

隠岐郡海士町海士1784 (令和5年10月14日)

東経133度06分14.05秒、北緯36度05分33.77秒に鎮座。

この神社は、海士町役場の東400m程の辺り、海士の街外れに鎮座しております。

御祭神 後鳥羽天皇

由緒
第82代後鳥羽天皇は、承久3年(1221)隠岐国海士に御遷幸、御在島19年の後、延応元年(1239)旧暦2月22日都への御還幸の望みも空しく、崩御遊ばされた。御遺骨は北面の武士・藤原能茂奉持し京都の大原の里に納め奉ったが、その大部分は行在所源福寺境内の一角に納め奉った。(現在の御火葬塚の処である。)
江戸初期頃までは片石を置いて標識としたという。慶長13年(1608)隠岐に配流になった飛鳥井少将雅賢は御陵を敬うの念篤く、これを修理された。万治元年(1658)に至って時の松江藩主松平直政侯は御廟を造営、次いで享保年間(1716〜1735)にも再建したが、その後江戸末期に至る頃には廟宇は腐朽して雨露のおかすありさまであった。
源福寺住職は、村人等と相議り祠殿を造営して村民と共に天皇を奉斎し、明治6年(1873)御神霊還遷に至るまで年々祭典を執行して崇敬の誠を尽くした。明治7年(1874)祠殿取毀後も御陵並びに源福寺跡において海士村民は祭祀を斎行し続けてきた。
このように村民挙げての崇敬祭祀の至誠は島根県知事を会長に戴き、隠岐神社造営奉賛会を組織し、昭和14年(1939)後鳥羽天皇700年祭を期に由縁深い聖地に隠岐神社を創建し鎮座祭が執行され、昭和18年(1943)4月県社に列せられた。・・・・・・
境内由緒書き より。

飛鳥井 雅賢(あすかい まさかた)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての公家。権大納言・飛鳥井雅庸の長男。官位は従四位下・左近衛少将。
天正13年(1585年)、飛鳥井雅庸の長男として誕生。
慶長14年(1609年)、後陽成天皇の女官と密通した罪(遊蕩の罪)により、隠岐国中之島へと配流され(猪熊事件)、配所で没した。弟・難波宗勝も同事件に関わっており、伊豆に配流となった。なお、慶長17年(1613年)に宗勝は赦され、飛鳥井家を相続し、雅胤と名乗った。
ウィキペディア より

参道入口

参道

参道左右の狛犬。拡大写真はこちら。

(昭和16年(1941)8月吉日建立)

参道

神門

拝殿

拝殿内部

本殿


校倉造の神輿庫

御輿

御神木


浦安の舞