万九千(まんくせん)神社・立虫(たちむし)神社

出雲市斐川町併川258(平成24年8月31日)

東経132度47分22.72秒、北緯35度22分17.64秒に鎮座。

 この神社は9号線・神立橋東詰に近い、斐伊川土手近くに鎮座しています。
 入口の鳥居脇に「立虫神社」「万九千神社」の社号標が立ち、下調べ無しで参拝した私達には奇異に思われましたが、江戸時代、万九千神社の社地に立虫神社が転社されたので、現在のような二社並立の形になったようです。
 入口二立つ鳥居後ろに狛犬がおり、左手に手水舎。参道正面に「式内立虫神社」の額が掛かった拝殿、後ろに廻ると弊殿・本殿が続いて建立されています。右手に横向きで「式内万九千神社」拝殿、後ろには本殿は無く、透かしの板塀内に神籬磐境に祭神名を記した石柱が立っています。
 又、境内には境内社が多数祀られていますが、どの社にもきちんと社名が記された石柱が建立されており、丁寧に祀られていることがよく分かり嬉しくなりました。

 立虫神社御祭神:五十猛命、大屋津姫命、 抓津姫命、万九千神社御祭神:櫛御気奴命、大穴牟遅命、少彦名命、八百萬神
 祭礼日:立虫神社例祭日・10月10日、万九千神社例大祭日・11月26日(新暦)
 境内社:馬繋荒神、秋葉社、金刀比羅社、大社、旅伏社、才ノ上社、大地主神、大地主神、和田津見社、稲荷社、天照大神、水神
 由緒:【立虫神社】
 延喜式 出雲風土記等所載の最も古い御社であります。
 三柱の御祭神は、父神の須佐之男命と共に、仁多郡馬上の 峯に天降られ、木種を四方に捲き殖えられた後、当地に下り来りて鎮座なさり、植林、耕地の開発、建築等諸産業の発展に努力されたという農村には誠に由緒の深い神々であります。
 もともと当社は現在地より未申方七町余り隔てた所 (今の斐伊川中で神立橋のほぼ大津寄り)にご鎮座なさっていましたが、寛文年中、斐伊川の川床の変遷により、万九千神社の境内に転社されたものであります。
 さらに大正十五年、千家に鎮座の客神社を合祀。 客神社の創立年代不詳なるも、旧鎮座地の村名を千家村 (出雲大社領)といい、この社は千家国造崇敬の社であり、毎年十一月大庭の神魂神社において、火継儀祭執行の際、千家の里に宿泊所を設け、その折、この社に供物を奉げて祭事を執行されたと伝えられています。
 【万九千神社(式内神代神社)】
 当社は延喜式、出雲風土記等所載の古い御社であります。
 出雲では全国八百萬神が毎年旧暦十月十一日から七日間出雲大社へ神集われ神在祭が執行されます。引きつづいて佐太神社において神在祭が執行され、最後に当社に神集い、幽議をなされ、同月二十六日には当神社より諸国の神社へ帰国の途におつきになります。 そこでこの意味において、当地方では、この日を神等去出(からさで)ともいい、当社の鎮座地が神立という地名であることもこれに由来するといわれています。
 古来、旧暦十月を出雲国においては神在月と称し、当神社においても十七日より二十六日までを神在といい、日供を献じ、国家貞祥、宝祚万歳、五穀豊穣、諸産業の繁栄を祈念しつつ二十六日の大祭日(神等去出祭)を迎えるのであります。
 地元においては、この日の夜間は特に静粛を旨として、外出を慎しみ静かに神々をお送りする風習が今も残っております。
 なお十七日より二十六日の間は、神々の会議を邪魔しないようにと奉楽など歌舞音曲を一切厳禁してあり、僅かに鈴の音が聞こえるのみであります。
 いずれにしても当社は、古代でいう出雲郡神戸里に属し、神奈備山を、あおぎ見る位置にあることから斐伊川の恩恵を受け、実り豊かな大地のもと、神々の交流の地として、その由来は極めて古いことになると言えます。
(サイト「いずもネット(境内案内板より抜粋)」より)

神社遠景
社頭
入口に立つ明神鳥居
社号標「特別神社立虫神社」 「御遷宮斎行」案内 社号標「万九千神社」
参道の様子
参道脇にいる昭和63年生まれの出雲狛犬
狛犬の拡大写真はこちらで
(昭和63年(1988)10月吉日建立)
境内の様子
立虫神社拝殿
立虫神社注連縄
拝殿にかかる額
「式内立虫神社」
拝殿内の様子
立虫神社弊殿と本殿
万九千神社拝殿
万九千神社拝殿に掛かる注連縄
拝殿に掛かる額
「式内万九千神社」
拝殿内の様子
万九千神社に本殿はなく、拝殿後方板塀内に「神籬磐境」があり、石柱が立っています。
神楽殿

境内社:馬繋荒神
境内社:天照大神
境内社:和田津見社
境内社:金刀比羅社
境内社:秋葉社
境内社:大社
境内社:旅伏社
境内社:才ノ上社
水波能売命
境内社:大地主廼命 境内社:大地主廼命