大國主神社

高島市新旭町饗庭619 (令和2年10月18日)

東経136度02分05.61秒、北緯35度21分54.32秒に鎮座。

この神社は、JR湖西線・新旭駅の北2km程の辺り、新旭町饗庭の街外れに鎮座しております。

御祭神 大己貴~
配祀神 健雷命・小毘古命・伊勢大~・春日四所大~・火産霊~

由緒
『天台座主記』によると、保延4年(1138)、木津荘は鳥羽院により延暦寺に寄進されました。その際に、日吉大社から荘内の総鎮守社として勧請されました。木津荘は、富永荘(長浜市)、栗見荘(彦根市)と合わせ、三千聖供料所として、延暦寺の最重要荘園のひとつに数えられます。
同荘内に鎮座する式内社波爾布神社を『古宮』と称したことに対して『今宮』と呼ばれました。
天授6年(1380)8月18日に高島郡田井村竹ノ花から遷座されたという記録があり、応永29年(1422)の『木津荘検注帳』には、上山の麓にあった旧御旅所の位置に『今宮』と記載があります。年代不詳の『木津荘引田帳』では、現在地での鎮座に記載されています。
応永15年(1408)に上郷と下郷の間に諍いが生じ、当社と日吉二宮神社に二分されました。
また、永正8年(1511)の『御宮年中行事』によると、4月初申日に当社の例祭(上の御前)、4月初酉日に二宮権現(日吉二宮神社)の例祭(下の御前)が上郷(田井・五十川・上野・米井・辻澤・森)と下郷(深溝・霜降・針江・小池・山形)の共同で行われていたようです。ただし、享保5年(1720)の『村明細帳』にはこの祭礼の記事がないことから、江戸時代半ばまでには別個の祭として行われるようになっていたことがわかります。当社と日吉二宮神社に針江日吉神社の例祭を加えると日吉大社の山王祭が再現されることからも、元は一社であったことが分かります。
当社に伝わる『永正8年(1511)御宮年中行事』、『宝永3年(1706)御宮年中行事』および『元文3年(1738)御宮年中行事覚え日記』から、年間の祭礼は簡素化されつつも、明治初年までほぼ変らず行われていました。
往古より詞官家(祠官家?)のほか宮座が存在し、神職と宮年寄(一番尉から十一番尉という11名)が祭事に携わっていました。
明治2年(1869)に差別撤廃のため宮座は廃止され、以来祠官家と宮総代により祭事が営まれています。
延宝6年(1678)に甲府宰相(徳川綱重)より東西32間南北143間の土地が寄進されました。また、大正8年(1919)、饗庭野演習場を視察中の北白川宮がお立ち寄りになり、ご親拝されています。
勧請以来「今宮山王権現」と号していましたが、慶応4年(1868)3月に現社号に改められました。政府の一村一社政策により、明治43年(1910)7月に白雲神社、上山愛宕神社、五處宮の三社を合祀しました。
由緒書き より。

参道入口

参道

境内

玉垣前の狛犬。拡大写真はこちら。

(明治45年(1912)建立)

石段

玉垣内側の狛犬。拡大写真はこちら。

(年代不明)

本殿

本殿縁側の神殿狛犬。拡大写真はこちら。

(岡崎市 狛犬屋『巽彫刻』令和元年(2019)建立)


末社