小野篁神社

滋賀郡志賀町小野(平成15年8月5日)

わたの原八十島かけて漕ぎいでぬと人にはつげよあまのつり舟

承和五年、遣唐副使であった篁は大使藤原常嗣と対立、病と称して進発しなかった上、遣唐使をめぐって嵯峨上皇を諷刺したため、罪を得て隠岐遠流に処された。その時詠んだ歌。副使に選ばれる位だからそこそこの貴族であった筈だが、この篁には不思議な伝説が多い。篁は夜な夜な京都珍皇寺の井戸から冥府に通って閻魔大王に仕えていたと云う。
 藤原良相(よしすけ)が死んであの世へ行ったところ、篁がいて閻魔大王にこの人を許して欲しいと言ったので、良相は生き返った。篁に会って例を言うとその事は決して口外してくれるなと言ったので、良相はいよいよ篁を畏れ敬ったと言う。

 この辺一帯は小野一族の中心地であったのか、小野妹子の出生地と考えられている。
 しかしやはり小野と言えば小野小町、彼女は絶世の美女であっただけに、また、「花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身世にふる 眺めせし間に」 なんて、容色の衰えを嘆く歌が百人一首に載っているせいか、彼女の晩年についても、能「卒塔婆小町」では、乞食となり、狂い死にしたと描かれていたりして、てんで容赦ありません。やはり深草少将の百夜通いの逸話のせいか。しかし何と馬鹿な奴なのだろうか「不覚さ少々」の間違いか。

「かぎりなきおもひのままによるもこむ夢路をさえに人はとがめじ」
「思いつつ 寝ればや人の見えつらん 夢と知りせば 醒めざらましを」
「いとせめて 恋しき時は むばたまの 夜の衣を 返してぞ着る」
「おろかなる 涙ぞ袖に玉はなす 我はせきあへず たぎつせなれば」
「人に逢わむ 月のなきには 思ひおきて 胸走り火に 心焼きけり」
「岩の上に 旅寝をすればいと寒し 苔の衣を 我に貸さなむ」
「うたたねに 恋しき人を見てしより 夢てふ物はたのみそめてき」
「うつつには さもこそあらめ 夢にさへ 人めをもると見るがわびしさ」
「恋ひわびぬしばしも寝ばや夢のうちに見ゆればあひぬ見ねば忘れぬ」

上記の歌から想像する小野小町は伝説とは違う様な。
しかし伝説は凄い。
「玉に疵(きず) ないのが小町 玉に疵」
「小野小町と 知恩院の傘は ささず濡らさず 骨になる」
裁縫に使う穴のない針を「待ち針」と呼ぶのは、「小町針」が語源だとの説もある。京都に退耕庵という寺があり、そこに玉章地蔵があるが、この地蔵は土で造られ、小野小町が自ら造ったと伝えられる。好色な男達からの艶書が山の様にたまったのであろう。
 晩年愛欲の虚しさを感じ、この地蔵の体内にそのラブレターを塗り込めたと言う。
 晩年は老残の身を巷にさらした小町は空海作と言われる玉造小町壮衰書」に美女の悲しみが歌われているようです。

わびぬれば 身をうき草の 根をたえて さそふ水あらば いなんとぞ思ふ」
やはり晩年は不遇だったのでしょうか。

「九重の花の都に住みはせて はかなや我は三重にかくるる
小町辞世の歌だと言われています。

餅及菓子の匠・司の始祖である第五代孝昭天皇の第一皇子天足彦国押人命と同命から数えて七代目の米餠搗大使主命(たかねつきおおおみのみこと)の二神を祀る。
狛犬の後ろに注目!
10月20日には菓子業界の大祭が行われる。文献によると応神天皇の時、わが国で初めて餅や菓子の元である「しとぎ」を米餅搗大使主命が作り、米餅搗大使主命の姓を賜ったとある。

      社殿
流れ造りの純神社建築だが壁に漆喰が塗ってありやや不思議な感じである。小野一族の神社が全てこの様な形式で造られています。

 現代人にとっては小野篁はあまりにも有名ですが篁神社は左側にある、小野神社の摂社です。 

一直線の参道

小野神社

社殿

社殿横から

扇状の尻尾が華やかな京うちわ狛犬

鏡餅灯籠

神社入り口、
緑が深く良い感じの神社です。