逢坂の関の清水に かげみえて 今やひくらん 望月の駒
拾遺集 貫之
大王の 命畏み 見れど飽かぬ 奈良山越えて 真木積む 泉の川の 速き瀬に 棹さし渡り ちはやぶる 宇治の渡の 滾たぎつ瀬を 見つつ渡り 近江道の 逢坂山に 手向して 吾あが越え行けば 楽浪ささなみの 志賀の唐崎 幸さきくあらば またかへり見む 道の隈くま 八十隈やそくまごとに 嘆きつつ 吾あが過ぎ行けば いや遠に 里離さかり来ぬ いや高に 山も越え来ぬ 剣大刀 鞘ゆ抜き出て 伊香山いかこやま いかが吾あがせむ 行方知らずて
万葉集巻13
国境近江逢坂山の山里は、都が大和から山城へと北上するにつれて、東海、東山、北陸への出入口となって重要視されました。枕草子にも「関は逢坂」と云うほどに歌、日記、物語にもみえて有名になりました。.......と色々書かれています。ようするに大事な所だから神社を建て、逢坂山に鎮まります手向けの神を祀り、都に疫病神が入らないようにし、貞観17年(875)従五位下を、贈られ、逢坂山の坂神と呼んだ。理由は不明だが後に蝉丸を関明神に合祀した。鴨の長明は無名抄に「逢坂の関の明神と申すは昔の蝉丸なり。彼の楽屋の跡を失わずして、そこに神となりてすみ給ふなるべし」....長明のころには伝説は出来上がっていたようです。寺門伝記補録には1.応永よりずっと昔から坂頭、坂脚の二所に関の鎮神として鎮座ましました。1.朱雀院の頃、蝉麻呂の霊を合祀した。と云う伝であります。......まだ続きますが、この位で。
流石歴史のある神社です。とても全文を紹介出来ない。是非現地で御確認を

勝手解釈。先に逢坂の地名があり、蝉丸が逢坂の歌を詠んだ。「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」、この連想から蝉丸が関明神に合祀された。さらに別れた姉とこの地で逢うと云った伝説が作られた。〜て云うのは如何でしょうか。もっとも百人一首の歌が本当に蝉丸作かどうか。