伊香具(いかぐ)神社

長浜市木之本町大音688 (令和2年10月16日)

東経136度12分17.70秒、北緯35度30分05.97秒に鎮座。

この神社は、JR北陸本線・木ノ本駅の西2km程の辺り、木之本町大音の街外れに鎮座しております。

御祭神 伊香津臣命

由緒
古来伊香神と称し(興福寺官務牌疏)延喜式内名神大社に列る当郡開祭の租神である。上世此地に湖水あり田里未だ開けざる時、伊香津臣命が此地に来られて「吾此処に止りて永く末代を守るべし」(近江国与地志略)と子孫に告げてこの地を拓かれた。後伊香宿禰豊厚が社殿を創立して租神を祀ったのは人皇40代天武天皇白鳳10年以前の事というがそれ以前この土地には迦久土神を祭った小社があったのではないかと考えられる。それは今の本社地を西へ二百米ばかりの所に、迦久土神を祭った「意太」おふと神社と呼び小社があり式内の小社で、今は本社の摂社になっているが、その「おふと」が今の部落名の「おおと」となったものと考えられ本社の一名を大音明神と称することも、これに由来するものであろうと思われるからである。尚本社の背後の山の字名を、香具山と呼んでいることもその一証であろう。所でその後国史に見えるのは、3代実録巻2に「貞観元年正月27日甲申奉授近江国従五位勲八等伊香神従四位以下」同じく巻12に「貞観8年閏3月7日壬子近江国従四位下勲八等伊香神授従四位下」とある。この2箇所だけであるが、社伝では「寛平7年菅原道真法華経金明経を手写して之を納め、又奉して勅額を賜う。其文に正一位勳一等大社大明神と云う」とある。然し今も残るものがないのは残念である。後足利尊氏は次のような朱印状を寄せて祈祷を依頼し、此にもとづく祈祷は今も正月5日9月の18日に執り行われている。 足利尊氏朱印状写 毎年正5,9月能々可御祈祷事 一、弐百石御地蔵木之本の内 一、弐百石大音名神三郷之内 右如前ニ知行尤ニ候猶以山内太郎左衛門尉可申候如件 建武3年11月15日 尊氏判 木之本上人殿 大音神主殿 井伊氏の代になってからも按部の際は、必ず参拝して行ったと言う。明治8年郷社に列し、明治32年県社に昇格した。此地に特記すべきは、明治14年郡内の有志が願い出て境内に維新以後国離に殉じた人の英霊並に郡神職を祀った伊香招魂社を立て、以後毎年春秋の祭例を斎行し、特に昭和43年からは春の大祭に郡内に全遺族を招待して、挙行していることである。明治40年神饌幣帛料供進神社に指定せられた。尚社殿や宝物は賤ヶ岳の兵火にかかって焼失し、現在の本殿、拝殿は、正徳年中の再建であるが、社務所は明治7年教部省の大教宣布の時、此の地方の小教院として建てられたものである。
滋賀県神社庁公式サイト より。

御祭神「伊香津臣命」は天児屋根命第七代孫であり、この神様が当伊香郡開発の始祖としてこの地に祭られたのは伊香郡が古代豪族伊香連の根拠地であった故と思われる。
「近江風土記」に収録された羽衣伝説では、伊香刀美という人が伊香小江で水浴していた天女と夫婦になり4人の神々をもうけたと伝えているが、この伊香刀美こそ「伊香津臣命」と同一ではないかと思われる。
その後九世紀後半に当神社神官伊香厚行が菅原道真公との親交深く、寛平7年(895)には菅公自筆の法華経、金光明経が奉納され同時に宇多天皇より「正一位勲一等大社大明神」の勅額を賜った。そして、伊香郡46座中第一の大社(延喜式内社)として明神大社に列せられた。
のち建武3年(1336)足利尊氏が朱印状を寄せて正月、五月、九月の年3回、国の平安を祈る祈とうを依頼した。しかしながら織田信長が天下を支配するやその領地は没収され、更に賤ヶ岳の戦で社殿、宝物等はことごとく焼失した。
当社正面の鳥居は三輪式と厳島式を組み合わせた独特の形式で、かつてこのあたりまで入江であったことを示すものである。また背後の山は伊香山と呼ばれ中腹の大岩のかげに天児屋根命を祭る祠が鎮座している。

當社の祭神は天児屋根命五世の孫伊香津臣命にして創立は天武天皇白鳳10年以前なり。古傳に 當社祭神始めてこの地に来たり給ふや田園未だ開けず國郡と別れず因って子孫に告げて曰く 吾天児屋根命の命を傳へて皇孫に侍従し久しく宝器を守る 尚この地に止まりて永く属類を守るべしと 是より号して伊香郡と言うと蓋し当社の起源古きを知るべし延喜式名神大社にして往古より伊香大社を称し実に當郡の総社たり
されば歴代の御叡信篤く特に文武天皇慶雲2年神地千石を賜ひ清和天皇貞観元年正月従四位下仝8年閏3月従四位上を授けられ宇多天皇寛平7年菅原道真公の奏達に依って正一位勲一等大社大明神の菅公自筆の勅願を賜ひ、また管公も當社を崇敬し自ら法華経教光明教を書して寛蔵に納むと建長3年9月大社の鐘を鋳し建武3年11月足利尊氏朱印二百石を寄せ毎年正五九の祈祷を行ふ この祭今に傳はる當時の隆盛察するに餘りありといふべし。然るに星霜移りて元亀年中織田信長社領を没収し天正11年賤岳の兵火に罹りて祠廟旧記多く烏有に帰せしも慶長13年社殿の再建、寛永13年神宮寺の造営あり正徳年中漸く旧態に復す 現境内は実に1587坪にして背後の香具山には奥の宮天児屋根命鎮座し老樹鬱茂森森たり明治9年10月郷社仝32年10月縣社に加列す。
當社例祭は醍醐天皇昌泰2年初めて4月24日に勅定せられ尓後歴し来りしが旧幕の頃より4月6日に変更し以て今日に至る。
境内由緒書き より。

参道入口

参道

神社入口

伊香式鳥居

参道

境内入口の狛犬。拡大写真はこちら。

(年代不明)

境内

中門

本殿


伊香招魂社鳥居

伊香招魂社社殿


三の宮神社

末社

獨鈷水

蓮池