日撫神社

米原市顔戸77 (令和2年10月19日)

東経136度18分42.18秒、北緯35度20分12.33秒に鎮座。

この神社は、JR北陸本線・坂田駅の東2km程の辺り、顔戸の街外れに鎮座しております。

御祭神 少彦名命・息長宿禰王・應神天皇

由緒
延喜式神明帳記載の坂田郡五座名神小の一にして、創祀年代は詳かでないが、「神祇志料」では「新撰姓氏録を案ずるに、山田造火撫直ありて、共に後漢霊帝4世の孫阿知使主の族也と云う、之によれば、ニ氏の俗或は此地に居る者、其の祖先を祀れるか」と、また「神社覈録」でも、「祭神火撫直祖神譽」と記されている。社伝および明治の神社誌によると、当地は、神功皇后の祖先代々住まわれし地なるを以て、皇后此の地を深く慕われ、三韓より凱陣の後、此の地に祠を建て、少昆古名命と御父息長宿弥王を祀られたのが創祀と、由来を説いている。中古は、社領600石を有し、朝妻庄内11ヶ村の大社で、数個の大伽藍と19の社坊があり、多くの社僧がいたことを記録に残している。歴朝の崇敬厚く、村上天皇は宸翰の額を奉納され、小野道風をして、下馬札を書かせ給う。特に後鳥羽上皇はしばしば参詣され、応神天皇を合祀されて、村人等による角力を叡覧され、この角力が今日伝承され、毎年秋祭に奉納されている。上皇は黄牛を奉納され、ひとえに御寵愛の牛と言はれ、この牛神慮にかない寿百余歳を保つと伝えられている。武将の尊崇も厚く、佐々木四郎高綱は、常に当社を敬い武運長久を祈願され、太刀並に生食馬(いけづきうま)の鞍を奉納される。後小松天皇の応永13年京極高光は、社殿の造営と大伽藍を建立されたが、数度の兵火に罹り、織田信長叡山諸院を焼亡し戦火北上するにより、神官、僧侶等これを恐れて自焼したため、古記録、宝物悉く焼失した。享保6年現在の社殿を修営され、拝殿は寛政年間に建てられたものである。また正保3年北小路の田の中より古鏡が発掘される。明治14年郷社に列し、同24年内務省より古社保存資金を下賜され、同41年神饌幣帛料供進指定となり、大正10年県社に列す。式内社
滋賀県神社庁公式サイト より。

境内より南南西250m程の辺りに立つ一の鳥居。

神橋

二の鳥居

参道左右の狛犬。拡大写真はこちら。

(昭和6年(1931)8月吉日建立)

参道

二の鳥居

境内入口の狛犬。拡大写真はこちら。

(大正11年(1922)建立)

拝殿

本殿


舞殿