鬼室神社

蒲生郡日野町小野 (平成17年3月23日)

滋賀県から今回の旅のもう一つの目的県・三重県へと向かうべく、雨の中国道307号線を急いでいると、道路に「鬼室神社」の標識が立っていました。歴史に詳しい夫がこの鬼室なる亡命渡来人のことをよく知っていて「あ〜、こんな所にあったのか。行くぞ。」と宣う。その結果国道307号線、中在寺交差点から県道525号線を6km弱も山間に入り、田園地帯の小さな森の中に佇む鬼室神社を参拝したのでした。夫の感想『意外だった。俺はこんな山奥じゃあなくて、もっと近江朝廷に近い所にあるのかと思っていた』『甘い!!あの頃の近江朝廷が700人もの渡来人をそんなに中央の肥沃な場所に住わせるはずがない』 というのが私の見方。
この神社で祭神として祀られている人物鬼室集斯(きしつしゅうし)。この人物は百済から日本へ渡来した多数の渡来人の中の優れた文化人で、来朝して8年後の天智10年(671)には学頭職(今の文部大臣)の要職まで務めています。 この神社、古くは不動堂と呼ばれ、小野村の西の宮として江戸期まで崇敬されてきたといいます。

鬼室集斯はどのような人物?

神社の本殿裏の石祠
『日本書紀』の天智8年(669)に有名な一節がある。
”この年、佐平(さへい)余自信(よじしん)・佐平鬼室集斯ら男女700余人を近江国蒲生郡に移住させた”
佐平とは百済国の十六品の官位の最高位である。その百済の最高位にいた亡命貴族2人を筆頭に700余人を蒲生郡に移住させたというのである。今から1335年前のことである。

鬼室集斯は、660年に唐と新羅の連合軍に滅ぼされた百済(くだら)を復興すべく、ゲリラ軍を組織して戦った鬼室福信(きしつふくしん)の子供である。おそらく父と共に山城に立てこもり、唐軍を悩ましたこともあったであろう。だが、天智2年(663)8月、我が国が派遣した水軍が唐の水軍と白村江で戦い大敗を喫したことで、百済復興運動は終始符を打った。

敗れ去った水軍は、9月には百済の亡命貴族や一般人民を乗せて我が国に向かった。その中に佐平余自信がいた。鬼室集斯の名はないが、おそらく同じ時期に我が国に亡命してきたものと思われる。来朝して何処に居を定めたかは分からない。おそらく大津の宮の一画に邸宅が与えられ、近江朝廷はそれなりの礼をもって彼を遇したはずである。なにしろ、百済復興運動の英雄の子息である。来朝して8年後の天智10年(671)、彼は学頭職(今の文部大臣)の要職にあったらしく、小錦下の官位が授けられている。

上に述べたように、天智8年(669)に、王族の余自信と共に、700余人の百済亡命渡来集団を率いて近江国蒲生郡に強制移住させられた。当時の蒲生郡のかなり劣悪な条件の土地で、おそらく未開の原野だったであろう。彼らはその地で水田を開発し、見事に成功した。

現在の蒲生郡には広大な水田地帯が広がっている。小野の集落に向かう谷間もきれいに開墾されている。車を走らせながらそうした風景の中に身を置くと、彼らがなめた辛酸の日々に思いを致さないわけにはいかない。渡来人たちが近江の国の発展に寄与した歴史的意義は計り知れない。

大韓民国忠清南道扶余軍の北西部にある恩山面(おんざんめん)と、日野町は1990年5月に姉妹都市の提携に調印した。恩山面には鬼室集斯の父・鬼室福信を祀る恩山別神堂がある。(panchoより)

長閑な田園地帯、このこんもりした
森が鬼室神社の社叢です。

境内全景

拝殿

本殿裏の石洞、
これが鬼室集斯のお墓です。