清水八幡宮

狭山市入間川3-35 (平成21年6月13日)

東経139度24分22.48秒、北緯35度51分15.26秒に鎮座。

この神社は、16号線入間川4交差点の北東側すぐ隣に鎮座しております。御祭神を木曽義仲の嫡子、清水冠者義高とする為、清水八幡宮とする、やや変わった由緒を持つ神社です。義高は木曽義仲と、勇婦としての誉れが高い巴御前との間に生まれた嫡子。比企郡岩殿山大蔵で生まれ、七ヶ所の清冷水を汲んで産湯を使った為、清水冠者義高と名乗ったそうです。

清水八幡宮の由来
祭神 清水冠者義
義は木曽義仲の子として比企郡大蔵に生まれ、六才の時伯父源頼朝が人質として鎌倉へ呼よせ、成人になるや娘大姫の婿となり鎌倉営中に住居をかまえていた。その後父義仲が頼朝と不仲となり誅滅したる後、義も頼朝に疑を受け謀殺されるとの風評に変装して寿永三年四月二十一日拂暁(七百年前)奥州の藤原秀衡をたより逃げたが、すぐ頼朝の知る処となり部下を八方に追わせた。途中当地入間川八丁の渡附近で藤内光澄にこの地で殺害された。頼朝の妻政子及び大姫がこの悲報に嘆き、亦畠山重忠等の進言により無実なる事明となり、当地に壮麗なる清水八幡宮の社殿を造営し政子自から参拝し義の霊を慰め且神田を寄附されたという。後應永九年八月の大洪水の時全て流失し後年川原より石祠が発見され現在の処に鎮座し再建されたるものなり。
境内由緒書より。教育委員会の説明等を含め全文はこちら。

清水八幡宮は、祭神が清水冠者義高(しみずのかじゃよしたか)という市内でもめずらしい神社です。木曽義仲(きそよしなか)の子として、生まれた義高の悲運を慰めるため、源頼朝の妻である北條政子と娘の大姫が社殿を建て義高を祭りました。毎年5月第3土曜日を「大祭」として 午後から祭礼が行われます。
狭山市公式サイトより。

事件の後、大姫は悲嘆のあまり十四歳で亡くなったそうです。最愛の吾が子を失った政子は怒り狂い、義高を殺害した藤内光澄を打ち首にしたというが、光澄こそいい面の皮ではないか。命令した頼朝も情けない。恐るべし政子!。

神社入り口と社号標

鳥居

拝殿

本殿