月読(つきよみ)神社

さいたま市岩槻区慈恩寺759 (令和3年3月27日)

東経139度42分44.40秒、北緯35度58分49.30秒に鎮座。

この神社は、東武野田線・東岩槻駅の北3km程の辺り、慈恩寺の街中に鎮座しております。

御祭神 月読命

由緒
当地名となった慈恩寺は、天台宗の名刹で、天長年間(824〜834)慈覚大師によって創建されたと伝えられる。戦国期の岩槻城主太田資正により寺領が安堵された時には、領内に66坊もの塔頭が建つほどの隆盛を誇った。
『風土記稿』慈恩寺村の項には「十二天社 本坊の北にあり、慈恩寺三村の鎮守なり」と載り、江戸期までは、慈恩寺の北側に鎮座していた十二天社が、当時の鎮守であったことがわかる。また、清水浩家所属の元禄4年(1691)の文書に、慈覚大師が慈恩寺開創のみぎり、遭山原(現大字裏慈恩寺の小名)の十二天尊が現れて、仏教擁護を誓約したという創建の縁起を載せ、更に第34世学頭亮全が、同社再建を決意したところ、旧内陣より「天正年中(1573〜1591)再奥(興か)之札」と書かれた古札が出てきたため、改めてその板面に本迹の梵字を写し、本尊と共に奉納して当山一門と慈恩寺村の繁栄を祈願した旨が記されている。
明治維新になると、さいたま市浦和区岸町の調神社に分霊を願い出て、十二天社の隣接地に月讀神社すなわち当社を建立した。これは、十二天社が慈恩寺の創建と深くかかわり、同寺の守護神として一体不離のものであったことから、明治初年の神仏分離政策をかわすために、当社を創建したものと推測される。ちなみに、創建時の建築費は慈恩寺が捻出したという。社名については十二天の暦の月に当てたものであろう。
境内由緒書き より。

参道入口

鳥居

境内。右手は十二天神社。

社殿