桶川市加納771 (令和6年8月29日)
東経139度33分46.82秒、北緯36度01分30.58秒に鎮座。
この神社は、圏央道・桶川加納ICの北北西1km程の辺り、加納の街中に鎮座しております。
御祭神 素盞鳴尊・菅原道真公
由緒
『埼玉県地名誌』によると、加納は中世荘園である深井荘の追加開墾地であるところから生じた地名である。地内には、室町-戦国期の加納城跡があり、岩槻太田氏の旗下木本氏が居住したと伝えられる。この木本氏の後裔が江戸期に上・下加納村の名主を務めたという。
当社は二社の合殿となっているが、元は別々に祀られていて、天満社が現在地にあり、氷川社が今よりも一キロメートルほど東方に離れた字宮ノ脇の地(現在のタカハシプレス工業の敷地)にあった。『風土記稿』によると、氷川社は上・下加納両村の鎮守で、天満宮と共に真言宗光照寺が別当であった。一説にこの光照寺は、戦死した加納城主の長男が出家して城の近くに庵を設けたのに始まるという。
神仏分離を経て、明治6年(1873)4月に、氷川社・天満宮共に村社となった。次いで、明治40年(1907)5月に氷川社と字本村の無格社八雲社を天満社に合祀したのを機に社名を氷川天満神社と改めた。天満社の方が合祀先に選ばれた理由としては、その周辺に有力者が居住していたことが挙げられよう。このときの御遷宮に際しては、氏子の各戸の庭先で「餅搗き踊り」を行うなど村を挙げて祝ったとの話が残されている。
神仏分離後の祀職は、合祀を経たころまでは、地元の加藤周蔵が務め、その跡を桶川の稲山家が継いだ。更仁昭和初年からは地元の桜井家が継ぎ奉仕している。
氷川天満神社と文化財
この神社は「加納の天神様」として親しまれ、古くから近郷近在の人々の信仰を集めていました。江戸時代の天保2年(1841)発行の「木曽街道懐宝図鑑」にもその名が記されており、参詣者が絶えなかったといいます。また、境内の井戸水を用いた薬湯は諸病に効くと有名であったことから、多くの参詣者が浸かってきました。この薬湯に使用した井戸は、ご神水の井戸として現在も境内地で水を湛えています。
神社の縁起は、「宝徳2年(1450)正月24日の夜に社の森に光が差し、コウノトリが尊像を背負って飛来し、社に安置して飛び去っていった」というものです。その後の正徳2年(1712)正月、菅原道真を祭神として、上加納村の鎮守としたと伝えられています。明治8年(1875)に上加納村と下加納村が合併し、この天満宮に下加納村の鎮守であった氷川神社を合祀したことから「氷川天満神社」と称するようになりました。
この神社には「天満宮」と記された木製の社号額があります。これは、梵語学者として有名な真言宗の僧・盛典(1662〜1747)が加納の光照寺で修行中であった元禄元年(1688)に奉納したもので、現在は桶川市指定文化財に指定されています。表面は黒漆を塗り、縁を朱塗りにし、中央の「天満宮」の文字は金色に塗られています。裏には「江戸愛宕真福寺一代日向所生超然房性遍法印御自筆元禄元年辰十一月吉日武州足立郡鴻巣内加納村願主釈盛典敬白」と刻まれています。かつては拝殿か鳥居に掲げられていたと考えられますが、現在は取り外され保管されています。
境内由緒書き より。
一の鳥居
神社入口
参道
参道左右の狛犬
(平成25年(2013)10月吉日建立)
二の鳥居
拝殿
拝殿前の狛犬。拡大写真はこちら。
(安永5年(1776)丙申9月吉日建立)
拝殿内部
本殿
本殿縁側の随身様
東側参道入口
参道
脇参道を護る狛犬。拡大写真はこちら。
(昭和10年(1935)4月帰朝)
日枝神社
本殿改築記念碑
記念碑裏の狛犬