寄巻水(よまきみず)神社

三郷市鷹野5-508 (令和3年3月25日)

東経139度52分38.82秒、北緯35度47分42.75秒に鎮座。

この神社は、東京外環自動車道・三郷南ICの南西600m程の辺り、鷹野の街中に鎮座しております。

御祭神 水波能女命

由緒
鎮座地の寄巻は、もとは戸ケ崎村のうちで、延宝元年(1673)に分村し、元禄10年(1697)の検地では寄巻前谷村となったが、後に再び分村した。
その地名は、大場川に沿って半円形の巻(集落)を成していたことに由来するという。
また、戸ケ崎村から分村前の慶長11年(1606)には、徳川家康が鷹狩りの際に当地を通っている。現在でもこれにちなんで付けられた御鷹野道の小字が残る。
歴史的にも、ゆかりのあることから住居表示の改正により、鷹野という地名とした。尚、当社の創建の年代については明かではないが、現在の水神社は、明治26年(1893)10月10日棟梁の原口賢一氏施行の事実が残されている。延享2年(1745)に宗源宣旨により、正一位の神位を受け、京都に参上して拝領の光栄に浴したことは寄巻村として無上の誉れであったと語り継がれている。神位の授与は、当時としては稀なこととも言われ、神祇官領より極位を受けるには、多額の費用を要したといわれ、この頃が村勢の安定する一つの境目であったものと思われる。
寄巻の先人・先輩諸公が、永々、辛苦艱難に耐え厳しい中から貴重な歴史と文化遺産を造りあげられたことに深く敬意と感謝の意を捧げる次第です。
本県の風土記稿には、寄巻水神社は村の鎮守なり、金蔵院持ちとある。
金蔵院と関りを示す史料には、水神社の内陣にある、宣命位水神宮護摩供礼別当金蔵院と刻まれた版木が現存しております。
また、内陣には往時の本地佛の高さ35センチメートルの水天像が安置されている。
当社の祭神は、水波能女命である。古くから水の神として信仰を集めており、その神徳により、当地は疾病・災害・大水による被害が他村に比べて少なかったという。また、本地佛の水天像に見られるように、水神様のお使いは亀であるといわれており、このことから、氏子の間では亀を飼うことを控え、また、川で亀を捕まえた時はお神酒を含ませて放してやる習わしとなっている。
年間の祭事は、1月23日の御備社、10月22日・23日の祭禮、毎月23日の月次祭である。特に月次祭は、神社の縁日であると伝えられることから、神社の創建に深くかかわる祭りであるといわれている。当社の宮司である鈴木重保氏が毎月来社し祭祀を執行。月次祭に限って奉祀する月番は家並み順に10名いる。
なお、当社にかかわる重要な行事に百万遍がある。神佛習合時代から続くもので当時の様子は、拝殿に掛かる絵馬に詳しく描かれている。
現在は子供の行事であるとともに体験学習の面からみても教育的な効果もあがるものと思われる。毎年7月8日と定めるものの、変更もあり得る。
8月2二日は土用洗い土用干し神輿みがき等、11月は七五三お子様の成長祈願祭(宮司祭祀)12月31日大晦日・初詣・祈祷等。
なお敬神の念厚い囃子会より諸行事に祭し囃子が奉じられている。
氏子の区域は古くから寄巻地区であったが、昭和47年(1972)自治組織編成等審議会の答申を受け、寄巻は六つの町会に分かれ、氏子たちが古くから馴れ親しんできた寄巻の地m、永は、ごく一部にとどめるだけとなっている。
氏子数は、元来47戸であったが、氏子区域が行政的に分断されたことを機に、氏子組織の改正整備が諮られ、加入希望者に対し随時入会できるよう便宜が図られている。ちなみに現在の氏子総数は127戸である。
境内由緒書き より。

参道入口

鳥居

玉垣内の狛犬。拡大写真はこちら。

(年代不明)

拝殿

拝殿内部

本殿覆屋

本殿


末社

石祠