八坂神社

越谷市大成町1-71 (平成28年8月19日)

東経139度49分15.59秒、北緯35度53分19.81秒に鎮座。

【神社情報・来戸さんより】
東武伊勢崎線「越谷」駅より徒歩約40分の所に鎮座しています。バスですと東口より「吉川駅北」、「越谷レイクタウン駅北」行に乗車、「大相模保育所入口」で下車、入口まで徒歩数分です。

御祭神 大己貴命、素盞嗚尊

御由緒
八坂神社は、元荒川の河畔、奥州街道 (日光道中)に面した元大相模郷の一村である見田方村の鎮守社で、天王社と称された古社でもある。
見田方の地は元郷の御田であったとも言われており、早くから開けたところと伝えられる。江戸時代は、忍藩(現行田市)の支配地、柿ノ木領八ヶ村に組み入れられた。
境内には、文化八年(1811)銘の改刻塞神塔や文久三年(1863)銘の猿田彦大神塔などが建てられている。
改刻塞神塔はもと庚申塔であったが、明治元年(1868)、神仏分離令の処置担当者として忍藩に抱えられた平田篤胤の門人木村御綱が、「庚申塔などと申すな。塞神と唱えよ。」と説いて、藩内の庚申塔をすべて塞神塔に改刻させたと言われている。このため、見田方村を中心とする柿ノ木領八ヶ村には、改刻塞神塔が数多く見られる。
また、八坂神社裏手脇にはかつて沼があり、そこに内池弁天が祀られていた。この沼は天明六年(1786)の関東洪水の時、元荒川の堤防が崩れてできたと言われており、人々はこの沼を”オイテケ堀”と名付けている。沼の主の大きな 白蛇は人が通ると「オイテケ、オイテケ」と呼びかけ、沼に引き込むと言われたことから、人々は決して子供たちを近づけなかったと言われている。
なお、見田方の地からは、昭和四十一年・四十二年の発掘調査により、水稲農耕を営んでいたと推定される古墳時代後期(六世紀後半頃)の住居跡などが確認され、現在、その遺跡は越谷レイクタウン駅前に「見田方遺跡公園」として現状保存されている。
境内案内板 より

奥州街道に面した、元は大相模郷の1つの村である見田方の鎮守で、天王社と呼ばれた古くからある神社でもあります。見田方は大相模の元郷ともいわれ、早くから開けた地と伝えられ、江戸時代は忍藩(おしはん) (今の行田市)支配地で、柿ノ木領八か村といわれました。境内にある大小の建物には、天文21年(1552)在銘の弥陀三尊図像板碑が納められています。そのほか、境内には文和8年(1811)銘の改刻賽神塔などが建てられています。
改刻賽神塔はもと庚申塔(こうしんとう)(石の塔のこと)でしたが、明治元年(1868)神仏分離令の処置担当者として忍藩にかかえられた平田篤胤の門人木村御網が、「庚申塔(こうしんとう)などと申すな、賽神と昌之よ」と説いて、忍藩(おしはん)内の庚申塔をすべて壊させ、賽神に改刻させたといわれています。このため見田方村を中心に忍藩(おしはん)柿ノ木領八か村には、改刻賽神塔が数多くみられます。
越谷市公式ホームページ > 神社  > 八坂神社

村の鎮守、来福寺の持、末社、稲荷、天神。新編武蔵風土紀稿 八條領 見田方村 より

賽の神 - 塞の神、障の神とも ウィキペディア より

一の鳥居

二の鳥居

手水舎

青面金剛刻像塔

拝殿

本殿覆屋

本殿


祭具庫

天明稲荷大明神、右側に祭具庫

お狐様

左・猿田彦大神塔、右・塞神塔