金窪神社

児玉郡上里町金久保1052 (令和元年5月1日)

東経139度08分35.81秒、北緯36度15分40.88秒に鎮座。

この神社は、JR高崎線・神保原駅の北西1.3km程の辺り、金久保の街中に鎮座しております。

御祭神 誉田別命

由緒
神流川と烏川の合流点付近に位置する金久保は「金窪」とも書き、その地内には秩父郡の土豪で、南北朝時代に新田義貞と共に転戦した畑時能の居城である金窪城があったことで知られる。金窪城は戦国時代には小田原北条氏の勢力の北限の守りとして、天正18年(1590)にコ川氏の支配下に入るまで氏邦の臣の斉藤氏の居城であった。
『明細帳』によれば、当社は大永5年(1525)に金窪城主の斎藤盛光が鎌倉の鶴岡八幡宮を城内に勧請したことに始まり、武運長久の神として斎藤氏の崇敬を受けてきたが、天正10年(1582)の神流川の合戦によって斎藤氏が敗退した後は、村民が村の鎮守として祀るようになったものという。更に口碑によれば、元和年間(1615〜24)に中山道の開通により現在地に遷座したと伝えられ、金窪城跡の300mほどの東にある旧地は「元八幡」と呼ばれている。
江戸時代には天台宗の長命寺が別当であったが、神仏分離によってその管理を離れ、明治5年に村社になった。ちなみに、長命寺は廃寺になり、今では堂の痕跡はないが、当社のすぐ北東にあったという。その後明治41年に字松原の無各社菅根神社を境内に移転し、続いて同44年には字西金の村社丹生神社、その境内社3社、大字内の無各社7社の計11社を合祀した。これは政府の合祀政策に従ったものであり、合祀を機に当社は八幡神社の社号を金窪神社と改めた。
境内由緒書き より。

参道入口

鳥居

参道左右の狛犬。拡大写真はこちら。

(大正14年(1925)10月15日建立)

拝殿

拝殿内部

本殿


末社