浅間神社

加須市伊賀袋(平成20年7月8日)

東経139度41分10.14秒、北緯36度10分28.38秒に鎮座。

【狛見倶楽部 佐野支部 クマちゃん通信員より】
神社は、368号線を古河方面に向かい、道路から右に入った伊賀袋地区にあります。昭和10年の狛犬が居ります。拝殿前に、享和3年と文政元年に奉納された水盤がありました。

御祭神:木花咲耶姫命

 当社は1193(建久四)年五月、征夷大将軍源頼朝が富士の裾野に大巻狩りを催した時、これに参加した頼朝の股肱の臣、下河辺の荘司、最初の古河城主、下河辺行平が駿河国一の宮富士浅間大神の分霊を、この地に勧請したものと伝えられる。ここは渡良瀬川の自然堤防上にあり、清流に青松の影をうつして風光明媚、神社を祀るに相応しい所である。爾来領主をはじめ、住民の崇敬きわめて篤く、隆盛をきわめた。
1338(建武四)年、新田義貞の孫、江田氏の祖、三河守頼氏より五代の裔、伊賀守政氏が、足利尊氏との戦いに敗れてこの地に亡命、浅間神社に仮寓し、後に神官となって土着し、代々開発に努力した。それまでは、単に「袋」と呼んでいた地名に伊賀守の名を冠して、伊賀袋と呼称するようになった。「袋」とは河川の屈曲して流れる所に造成された袋状の台地で、地味豊かにして、農耕に適しているため、古代より人の住居したところである。因みに当地からは、古墳時代初期の、和泉式土器が出土している。
1455(康正元)年足利成氏が古河公方となると、浅間神社は公方関基の向古河村、真光寺の管轄となった。ある年、公方の奥方が病気になった時、平癒祈願成就のため、公方より神田を寄進された。同社には古来より籠り堂に神湯の設備があって、これに浴して祈願すると、難病も忽ち全快するといわれ、参籠者の絶えることがなかったという。夏と秋の大祭には参拝者に神酒や甘酒を饗し、芝居や相撲などを催して賑った。
 これまでにいくたびか社殿の新改築が行われたと思われるが、その記録をとどめない。
 1881(明治十四)年六月瓦葺きの本殿を新築して面目を一新し、同二十八年に村社に昇格した。さらに三十九年に、八幡、香取の両社が合祀された。
 このたび氏子多年の念願がかなって、本殿を改築し、茅葺の拝殿をとりこわして新築し、共に銅版葺きにしたので、威容ととのい、境内の老松古柏のなかに一段と尊厳をそなえた。
伊賀袋村は、古くは下河辺荘といわれ下総国西葛飾郡に属し古河藩領であったが、明治四年の廃藩置県後茨城県となり同二十一年、猿島郡新郷村大字伊賀袋となった。大正初期まで神社の裏に渡し場があり、古河へ通ずる主要な場所であった。またこの辺りから河流が左折するので急流となり遡行する高瀬舟の船頭達に「おせんげんの難所」といわれて警戒されていた。当地は河川に接しているため堤防の決壊によりたびたび水害を蒙った。大正初年河川改修により河の西側となり、昭和五年七月県境変更、埼玉県北葛飾郡河辺村に編入された。昭和三十年耕地整理を実施し、同年の町村で利島村と合併北河辺村となり、同四十六年町制施行で北河辺町となって現在に至る。
ここに社殿の新築を記念して、その由来を碑に誌し、社前に奉納して、永く後世に伝えんとする所以である。
清流千里枕河東 山紫水明田邑豊 鎮座星霜八百歳 郷人崇敬浅間宮
境内由緒書より。

地図を見ると、群馬県、栃木県、茨城県に境を接しています。複雑な変遷の経緯が書かれています。

神社入り口 拝殿正面

大きなゴジラ顔の楽しそうな狛犬です。拡大写真はこちら。

(昭和10年(1935)建立)

拝殿と本殿

境内の末社や石仏

江戸時代の水盤

享和3年 文政元年