川口市戸塚3-13-6 (令和6年9月2日)
東経139度45分02.16秒、北緯35度52分01.72秒に鎮座。
【神社情報・「狛犬さがし隊Kさん」より】
この神社は、JR武蔵野線・東川口駅の南南東600m程の辺り、戸塚の街中、戸塚小学校のすぐ北側に鎮座しております。
御祭神
由緒
当社は旧別当西光院と共に大宮台地南端に並び立つ。この高台の突端には、忍城主成田氏の麾下で、この辺りを領した小宮山忠孝が天正年中(1573-92)に住したと伝える城跡がある。
別当西光院は天正元年(1573)に当地に来た叡雅上人により庵として結ばれたのが始まりで、その後、文禄2年(1593)に再び上人が当寺に来た際に青竜山西光院伝福寺と号した。更に、寛永年間(1624-44)に第3世長雅上人により薬師堂・表門・客殿などが造立されて再興がなり、以来興隆を極めたという。
以上のことを勘案するに、当社の創立年代は中世末から近世初頭のことと推測され、寛永年間の西光院再興に際しては、隣接する当社の整備も進められたものであろう。
『風土記稿』に当社は「氷川熊野峯岳明神社 小名上組の鎮守なり、西光寺の持、末社 天神社、荒脛(あらはばき)社、諏訪社」と載る。
明治初年の神仏分離により別当を離れた当社は明治6年(1873)に村社となり、氷川社と号した。同40年(1907)には大字戸塚内の下立山組の神明社、一本木組の諏訪社、平沼組の厳島社、佐藤組の稲荷社、藤兵衛新田の稲荷社、久左衛門新田の天神社の六社を合祀して七郷神社と改称した。この社名は、七つの村組で祀る神社が合併したことにちなむものである。時の社掌高橋景行による命名であろう。
境内由緒書き より。
参道入口
入口左右の岡崎型狛犬。拡大写真はこちら。
(年代不明)