日枝神社

川越市日枝 (平成22年2月11日)

東経139度26分49.2秒、北緯35度55分42.93秒に鎮座。

この神社は、東武東上線・霞ヶ関駅の北600m程の辺り、住宅街の中に広い境内を持つ神社です。この地の豪族、河越太郎重頼の父、能隆(よしたか)が河越荘園の総鎮守として、日枝神社を京都より勧請、領内の上戸に奉じたということです。

日枝神社縁起
祭神:大山咋命・大己貴命・小彦名命・大日霊尊・大御食都命・大屋昆古命
 当社は元日吉山王権現と称し、遠く貞観年代(860年)の創立なり。陸奥岡の住人休慶と言う修業僧が、京都比叡山麓にある日吉山王を深く信仰し、神告により武蔵の此の地に社を建立せり。当時の資料として布目瓦等出土せり。
 永暦元年(1160)後白河法王が京都に新日吉山王社を祀ったのにともない、河越氏が河越庄を後白河法皇に寄進、以後後白河法皇の御領地となり、新日吉山王権現と称す。
 寛永年中(1243)北条時頼社殿を再営せり。更に河越平朝臣経重が、文応元年(1260)に銅鐘を寄進。「武蔵国河肥庄、新日吉山王宮……」等の銘文あり。市内養寿院にありて、重要文化財の指定なり。
 河越三十三郷の内、当社は三芳野里上戸村・鯨井村・的場村の総鎮守にして、的場村に通ずる参道十町尚現存せり。
 境内地八百三坪、社地三町三反五畝二十一歩を有し、古杉松等の老樹樹蒼と繁りたれど、今は宅地造成され、その影を留めず。
 社は修験大広院持にて、神職は上戸氏なり。鳥居の南方山林中に小なる塚ありしも今はなし。然れどもこれぞ虚無僧塚にして、殺害物語の場所として伝説に残れり。
 社の東西に壱対の石灯籠あり。新日吉山王宮御宝前正徳元年(1711)氏子中とあり。県下に日吉社多くあれども新日吉山王と新の文字あるは、この社のみと言う。明治元年(1868)神仏分離令により、日枝神社と改称せり。
 なお、明治四十一年県令により、村内無格社は皆境内に合祀せらる。(神明・八坂天王・愛宕・御嶽・浅間等なり)
境内由緒書より。全文はこちら。

神社入り口

参道

拝殿

覆屋の隙間より伺う本殿

拝殿内、日枝の神使「猿」。

疱瘡神社・八幡神社・八坂神社

大地主神社・御嶽神社・白山神社

愛宕神社

入り口左右の戸衛神社

神明社

八坂神社