金鑚(かなさな)神社

本庄市栄3-5-5 (令和元年5月1日)

東経139度10分26.40秒、北緯36度13分37.46秒に鎮座。

この神社は、関越道・本庄児玉ICの北北東1.5km程の辺り、栄の街中に鎮座しております。

御祭神 素盞鳴尊

由緒
本庄台地の末端近くに位置する東富田と西富田は、古くは一つの村であったが、中世の末期に分れたものと思われる。このことは、鈴木弘家文書の天正18年(1590)4月の「信茂判物」に「両富田之村」とあることからも推察できる。当社は、そのうち西富田の鎮守として祀られてきた社である。
創建について『児玉郡誌』は、「当地は、鎌倉時代には武蔵七党児玉党の支族・富田三郎近家(親家)が居住したところで、当社はこの近家が勧請したものである」旨の言い伝えを載せている。ここにいう富田近家の居館と伝えられ、平安時代から鎌倉時代にかけて築造されたものと推定される屋敷の跡は、村の中央にあり、今では空堀の一部が残存するだけであるが、かつては水堀が残っていたらしく、女堀川の北側には「堀ノ内」の地名がある。こうした周辺の状況を考えると、当社の創建に富田氏がかかわった可能性は高い。
また、『児玉郡誌』は、新田義純の後裔である岩松満次郎が江戸時代に書いた石額があること、社殿は茅葺きで古い構造のものであること、かつてより京都吉田家の配下の神主内記が奉仕してきたことを記している。この記事に見える「石額」は現存し、表面には「金鑚大明神」とあるので、当時、京都の吉田家から大明神号を受けていたことが推察されるが、年紀がないため年代は不明である。
境内由緒書き より。

神社入口

神額

拝殿

拝殿内部

本殿覆屋

本殿


末社

石祠

神楽殿