萩日吉神社

比企郡ときがわ町西平 (平成23年5月15日)

東経139度14分30.97秒、北緯35度59分36.75秒に鎮座。

【狛見倶楽部 佐野支部 クマちゃん通信員より】
神社は、172号線を白石峠方面に向かい、宿信号を左折して進んだ西平地区、萩ヶ丘小学校の近くにあります。大正15年(1926)のお猿さんが居りました。堂々とした本殿だそうですが、見ることは出来ません。3年に1度、流鏑馬が奉納されるそうです。神社入口の御神木「児持杉」は大きかったです。

萩日吉神社の由来
「平の山王様」「萩の山王様」と親しまれるこの萩日吉神社は、社伝によると欽明天皇六年(544)十二月に蘇我稲目により創建されたと伝えられます。当初は、萩明神と称されましたが、平安時代初期に慈光寺一山鎮護のため、近江国(現滋賀県)比叡山麓にある坂本の日吉大社を勧請合祀して、萩日吉山王宮に改称したといわれています。源頼朝は文治五年(1189)六月、奥州の藤原泰衡追討に際し、慈光寺に戦勝祈願しその宿願成就の後、慈光寺へ田畑千二百町歩を寄進しましたが、同時に当社へも御台北条政子の名により田畑一町七畝を寄進しています。以後社殿の造営が行われて別格の社となり、元禄十年(1695)以降は牧野家の崇敬が厚く、『風土記稿』には「山王社 村の鎮守なり」と記されています。明治元年(1868)の神仏分離令により、現在の社名「萩日吉神社」となりました。・・・・
都幾川村教育委員会。全文はこちら。

蘇我稲目
欽明天皇13年(552年)百済の聖明王の使者が仏像と経論数巻を献じ、上表して仏教の功徳をたたえた(仏教公伝)。天皇は仏像を礼拝の可否を群臣に求めた。稲目は「西蕃諸国々はみなこれを礼拝しており、日本だけがこれに背くことができましょうか」(「西蕃諸國一皆禮之 豐秋日本豈獨背也」)と答えた。これに対して大連の物部尾輿と連の中臣鎌子は「わが国の王は天地百八十神を祭っています。蕃神を礼拝すれば国神の怒りをまねくでしょう」(「我國家之王天下者 恆以天地社稷百八十神 春夏秋冬 祭拜為事 方今改拜蕃神 恐致國神之怒」)と反対した。天皇は稲目に仏像を授けて試みに礼拝することを許した。稲目は小墾田に仏像を安置して礼拝した。その後、疫病が起こり、民に死する者が多く出た。尾輿と鎌子は蕃神礼拝のためだとして、仏像の廃棄を奏上し、天皇はこれを許した。仏像は難波の堀江に流され、伽藍には火をかけられた。すると、風もないのに大殿が炎上してしまった。しかし、これで仏教が完全に排除された訳ではなく、翌欽明天皇14年(553年)には海中から樟木を引き上げて、天皇は仏像2体を造らせている。
仏教受容問題に権力闘争が重なり、蘇我氏と物部氏は激しく争った。決着はつかず、この争いは子の蘇我馬子、物部守屋の代まで引き継がれた。
ウィキペディアより。

管理人の一言。
崇仏派であった蘇我稲目が創建したのは、きっと慈光寺だった筈です。仏教公伝の頃、神仏は習合しておらず、仏教を受容するか否かを巡って蘇我氏と物部氏が争っていた当時、蘇我稲目が神社を創建するとは考え辛いと思います。

参道入口と一の鳥居

参道途中の猿
(大正15年(1926)建立)

二の鳥居

拝殿

拝殿内部

本殿覆屋


平忠魂社

末社

神楽殿

児持杉

御神木