東松山市箭弓町2-5-14 (平成21年7月5日)
東経139度24分6.19秒、北緯36度1分52.85秒に鎮座。
この神社は、東武東上線・東松山駅の西側300m程の辺り、東松山の街中に鎮座しております。
御祭神 宇迦之御魂神(保食神)豊受比賣神
当社の御創建は和銅五年と伝えられ、規模の雄大さと御社殿の荘厳さと御霊験の灼かさに於いては、関東に比なき稲荷大社と称せられ、創立の当時は野久又は矢久稲荷と称せられ里人の信仰の的となっていた。社記に依れば人皇第六十八代後一条天皇の御宇長元元年下総国(千葉)の城主前上総介平忠常謀反を企て、安房、上総、下総の三カ国を切従へ破竹の如き勢いにて威を八州に震い大軍を起こして武蔵国に押出せし時、冷泉院判官代甲斐守源頼信長元三年忠常追討の倫旨を賜り、当地野久ヶ原に本陣を張りて当社を尊仰し朝敵退治の願書を呈し、一終夜の御祈願ありてその暁白雲俄に起こりて白羽の箭の如く型取りたる雲あらわれると共に一陣の風颯と吹き立ち敵陣の方へ箭を射る如く飛び行けば頼信神明の感応なりと直ちに敵陣に攻め入れば、忠常の陣中麻の如く乱れ三日三夜追討して潰滅せり、頼信御神威を感得、喜悦して直ちに見事なる御社殿を再建建立して箭弓稲荷大明神と称へ奉れりと記され亦後に御社名を箭弓稲荷と呼称す。
又宝徳三年二月の初午に河肥の左金吾持資主の心願成就の法楽を捧げられ文明年中まで年毎の御祭礼は、太田道灌により執行せられ、松山城主上田氏、難波田氏も康正年中より、代々の領主達の尊信最も篤く後川越八代の城主松平大和守は、社地を免租して親筆の献額を捧げ、松平家代々の城主当社を崇敬し御分霊を城内及び邸内に奉斎された。
当社の最も隆盛を極めたのは、特に享保年間で庶民の崇敬最も篤く、四方遠近の国々貴賤当社に心願をこめて参籠し、社前市をなし人馬の往来繁く江戸より熊谷西上州、また江戸には「箭弓稲荷江戸講中」日本橋小田原町を中心に江戸市中に及び講中の参拝引きもきらず、桶川、鴻巣、吹上の宿より道中して参拝し「従是箭弓いなり道」の道標50余本ありて当時の隆盛を偲ぶことができる。現在も大小百余講社あり。尚当社は、五穀豊穣、商売繁盛。家内安全の守護神であるとともに養蚕倍盛、交通安全、厄除、火難除、開運、学業成就、芸能精進等の神社として信仰を集めております。
境内由緒書より。
朝廷より追討を命ぜられた源頼信は勿論源氏。源氏と云えば八幡大菩薩。普通ならば白鳩が何処より飛んで来て・・・・といった具合になりそうな気がします。しかしここでは稲荷大明神に戦勝祈願をしたようです。
箭弓神社前交差点に立つ一の鳥居と社郷標
神社入り口と二の鳥居
三の鳥居
三の鳥居前の狐さん。落ち着いた顔立ちです。拡大写真はこちら。
(大正13年(1924)12月吉日建立)
拝殿
拝殿前左右の狐さん。拡大写真はこちら。
(天保12年(1841)建立)
向拝下の彫刻と木鼻
拝殿内に箭と弓が掲げられています。
拝殿内の神殿狛狐。拡大写真はこちら。
脇障子
本殿。本殿の彫刻はこちら。
裏側より見る本殿
元宮。詳細はこちら。
宇迦之御魂社(團十郎稲荷・穴宮)。詳細はこちら。
箭弓と野球の語呂合わせでしょう。野球必勝祈願の絵馬が多数掛けてあります。
こちらが元々の絵馬でしょうか。
御神水
記念館
向拝下の龍
木鼻の狛犬