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ロバート・サーマン教授

平成18年(2006年)7月4日6面

高麗澄雄宮司   文康禰宜 に聞く
   四月二十四日に神社本庁で行なわれた 評議員会で別表神社への加列が承認された高麗(こま)神社(埼玉県日高市)。六月十四日に神社本庁で 辞令が交付され、高麗文康禰宜と代表役員二人が出席した。高麗神社は古代、朝鮮半島から渡来し、この地に 高麗郡を開拓した高麗王若光を祀る神社で、平成二十八年(二〇一六)の建郡千三百年に向けて各種記念事業が 進められている。高麗神社の宮司は代々若光の子孫が受け継ぎ、現宮司で第五十九代に及ぶ。五十年にわたり 宮司を務めてきた高麗澄雄宮司と、第六十代になる予定の文康禰宜親子に、戦前の昇格運動と戦後の歩み、 今後の抱負を聞いた。   (聞き手=橋雅樹)


戦前から神社の昇格運動があったそうですが。
高麗宮司   昭和二年に高麗神社を別格官幣社に 昇格させようという運動があり、衆議院で議決され、貴族院まで行きましたが昇格に至りませんでした。
 そのころの武蔵野鉄道(現在の西武鉄道)は大正時代まで、池袋から飯能までしか開通していませんでしたが、 昭和のはじめに飯能市吾野まで延びたため、その間にある高麗神社が注目されるようになったのではないかと 思います。
 当時、埼玉県から出た粕谷義三議員が衆議院議長になったことも関係あったかもしれません。
 その後、児玉秀雄伯爵が会長、丸山鶴吉警視総監が理事長となり、昭和九年ごろに奉賛会が設立されています。
 昭和十七年ごろは国幣社にしようという動きが盛り上がりましたが、実現しなかったようです。
 昭和十八年に県社となりましたが、間もなく終戦となり、社格制度そのものがなくなってしまいました。
神社側としてこのような昇格運動に主体的に取り組んだということはありませんでした。むしろ周辺の方々が 動いていたということです。当時は経済的に豊かでなかったことから、私たちは神社を守るのに必死でした。 ただ、戦前からのそういう経緯を考えると、今回の別表神社への加列は隔世の感があります。
五十年一貫して高麗神社の宮司をお務めだそうですが。
高麗宮司  昭和二十三年に禰宜、三十三年に宮司に なりました。他の神社で奉仕したことはありません。中学校で社会科を教え、約五十年務めてまいりました。 教育界で管理職にならないかという声もありましたが、神社のためを思い、ならないまま退職しました。
 宮司として、戦後の農地解放などで失われた境内地を取り戻し、参道や駐車場を整備しました。
参拝者が徐々に増えているそうですが。
文康禰宜  この神社へ参拝に来られる方が多くなった 理由は「出世開運の神様」「朝鮮半島由来の神様」という御神徳に加え、電車や車など交通が発達して、 観光や行楽地として注目されるようになったのではないかと思います。
ハングルの案内板もありますね。
文康禰宜  設置したのは比較的最近のことで、 十年ほど前。ハングルのパンフレットは五、六年前です。
 以前は在日の方の参拝者が多く、韓国からやってきた方も普通に日本語で会話していたので必要なかったのです。
これからの抱負は。
高麗宮司  息子には、自分の財産を 削ってでも神社を守る気持で頑張ってほしいと思います。
文康禰宜  昭和五十年代には朝鮮半島ゆかりの神社と いうことでいくつかのメディアに取り上げていただきましたが、中には間違った情報もありました。
 建郡千三百年記念事業という格好の機会に、講演会や展示会などを行ない、より一層正確な情報を発信して いきたい。 
 社誌編纂も大きな目玉で、学芸員を置いて、進行中です。特に中世から近世にかけて高麗氏が修験者だった 時代の記録は貴重で、師弟関係などが明らかになりつつあります。現在の神職にとっても、修験のあり方は かなり参考になると思います。

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このページの最終更新日 2006年7月19日