行田市埼玉5450 (平成25年11月13日)
東経139度28分58.27秒、北緯36度07分12.17秒に鎮座。
【狛見倶楽部 佐野支部 クマちゃん通信員より】
神社は、埼玉県道77号線沿い「さきたま古墳公園」の近くにあります。昭和46年(1971)に修理された年代不明の狛犬が居りました。社殿は古墳の墳頂部にあります。延宝4年(1676)の鳥居と元禄10年(1697)の石灯籠が市指定の文化財です。境内社の明治神社、鳥居が壊れていました。
埼玉県北部の埼玉古墳群に隣接して鎮座し、当社自体も浅間塚古墳の上に建てられている。
社名は地名「埼玉」の語源とされる。また、当社では「前(さき)」は「幸」、「玉(たま)」は「魂」の意味であるとし、「幸魂神社(さいわいのみたまじんじゃ)」を別称としている。
埼玉古墳群に隣接し、本殿も古墳群の方を向いて建てられている。当社の創祀に関しては、古代の祭祀集団がその首長層と推定され]、古墳時代にそれらを守護する形で祀られたと見られている。
神亀3年(726年)の戸籍帳には「武蔵国前玉郡」の表記があることから、社名「前玉」がのちに「埼玉(さきたま、のち さいたま)」と変化していったとされる。
平安時代中期の『延喜式神名帳』には「武蔵国埼玉郡 前玉神社二座」と記載され、式内社に列している。なお、読みとしては「サキタマ」と「サイタマ」の両方が記載されている。
中世の動向は不明であり、社伝によると忍城中にあった浅間社を勧請してからは「浅間社」と号し、鎮座する古墳は富士山に見立てられていた。初め古墳上の神社は「上ノ宮」、中腹にある神社は「下ノ宮」とされていたが、明治に入り上ノ宮は「前玉神社」、下ノ宮は「浅間神社」と定められた。
のち、明治時代の近代社格制度においては郷社に列した。
ウィキペディア より
参道入口
延宝四年(1676)忍城主阿部正能家臣と忍領氏子達により建立された、文化財の大鳥居。
優雅でしなやかな江戸流れ。拡大写真はこちら。 | |
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(年代不明) |
手水舎
舞殿
二の鳥居と参道
市指定文化財の万葉灯籠 佐吉多万能 津爾乎流布禰乃 可是乎伊多美 都奈波多由登毛 許登奈多延曽禰 (埼玉(さきたま)の 津に居(を)る船の 風をいたみ 綱は絶ゆとも 言(こと)な絶えそね) 前玉之 小埼乃沼爾 鴨曽翼霧 己尾爾 零置流霜乎 掃等爾有欺 (埼玉の 小埼の沼に鴨そ翼(はね)霧(き)る 己(おの)が尾に 降りおける霜を 払ふとにあらし) 元禄10年(1697)10月15日、当社の氏子が祈願成就を記念して奉納した。『万葉集』に載る、当地に関する歌が一首ずつ記載されている。 |
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参道
拝殿
社額
本殿覆屋
本殿
末社
明治神社
浅間神社
槙