秩父市番場町1-1 (平成24年4月16日)
東経139度5分14.36秒、北緯35度59分39.89秒に鎮座。
【神社情報・来戸さんより】
秩父鉄道「秩父」駅より北へ徒歩数分の所に鎮座しています。私は駅近くのビジネスホテルに二泊三日の機会があり、二日間とも早朝参拝しました。早朝参拝が一番好きな時間帯です、神の時間帯から人の時間帯になった時・・・すてきな所でした。御朱印はビジネスホテルに帰る途中、一目散に神社へ、社務所がまだ開いていました。
御祭神 八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)・知知夫彦命(ちちぶひこのみこと)・天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・秩父宮雍仁親王 - 昭和天皇の弟。昭和28年に合祀
御由緒
秩父神社のご創建は、平安初期の典籍『先代旧事紀−国造本紀−』によれば、第十代崇神天皇の御代に知知夫国の初代国造に任命された八意思兼命の十世の子孫である知知夫彦命が、祖神をお祀りしたことに始まるとされており、武蔵国成立以前より栄えた知知夫国の総鎮守として現在に至っています。
元慶2年(878年)には神階正四位下に進み、延長5年(927年)に編算された『延喜式』にも掲載されるなど、関東でも屈指の古社のひとつに数えられています。また、中世以降は関東武士団の源流、平良文を祖とする秩父平氏が奉じる妙見信仰と習合し、長く秩父妙見宮として隆盛を極めましたが、明治の神仏判然令により秩父神社の旧社名に復しました。
秩父神社公式サイト より
当社の社殿と参道の南側延長線上に武甲山(時代によって武光山、秩父嶽、妙見山などとよばれる)があり、元々は武甲山を神奈備として遥拝する聖地であったと考えられている。
『先代旧事本紀』の「国造本紀」によれば、崇神天皇10年、知知夫国の国造に任命された八意思兼命の十世の子孫である知知夫彦命が、祖神である八意思兼命を祀ったことに始まるとされる。允恭天皇年間に知知夫彦命の九世子孫・知知夫狭手男が知知夫彦を合わせて祀ったという。地域名の「秩父」の名を冠するが、「知知夫」から「秩父」に変わった時期は明らかではない。なお、「秩父」の初見は708年である。
その後、律令制度の崩壊により、秩父神社を支えてきた豪族の力が弱まるにつれ、当社も次第に衰微していったものと思われる。これに代わって登場するのが妙見社である。
社記および『風土記稿』によれば、天慶年間(938年-947年)、平将門と常陸大掾・鎮守府将軍平国香が戦った上野国染谷川の合戦で、国香に加勢した平良文は同国群馬郡花園村に鎮まる妙見菩薩の加護を得て、将門の軍勢を打ち破ることができた。以来良文は妙見菩薩を厚く信仰し、後年秩父に居を構えた際、花園村から妙見社を勧請した。これが秩父の妙見社の創成である。
その後良文は下総国に居を移した。下総での子孫が建立した千葉神社の祭神も妙見菩薩である。秩父に土着した子孫は秩父平氏と呼ばれる武士団を形成した。
鎌倉時代に社殿が落雷により焼失し、再建する際に神社北東に祭られていた妙見菩薩を合祀し、秩父三十四箇所の旧15番札所・母巣山蔵福寺(現在は廃寺)が別当寺的な存在で当社を管理した。以降神仏分離まで「妙見宮」として栄え、延喜式に記載の本来の「秩父神社」の名称より「秩父大宮妙見宮」の名称の方が有名となった。
江戸時代の絵図では、境内の中央に妙見社があり、その社殿を取り囲むように天照大神宮・豊受大神宮・神宮司社(知知夫彦と記す絵図もある)・日御碕神社の4祠が配されている。神宮司社は式内社である秩父神社の衰微した姿であるといわれており、江戸中期の儒者である斉藤鶴磯は「武蔵野話」の中で、この神宮司社について「この神祇は地主にして妙見宮は地借なるべし。(中略)妙見宮は大祠にして秩父神祠は小祠なり。諺にいへる借家を貸しておもやをとらるるのたぐひにて、いづれ寺院神祇には、えてある事なり」と評している。
明治の神仏分離により、妙見菩薩と習合していた天之御中主神に祭神を改め、社名も本来の「秩父神社」に戻した。鳥居の扁額では「知知夫神社」と表記されている。頒布されている護符などに現在も妙見信仰が遺されている。
ウィキペディア より
管理人の一言
江戸時代妙見宮よ呼ばれたこの秩父神社の創建は、秩父に居を構えた平良文によって花園村から勧請された妙見菩薩を祭った母巣山蔵福寺であり、その守り神として寺院の境内に神宮司社を建て土地の神「知知夫彦命」を祀ったと思われます。斉藤鶴磯のいう「借家を貸しておもやをとらるるのたぐひ」では無く、平良文の時代には既に衰微して、不明となっていた・・・と考える方が自然ではないでしょうか。
境内入口と一の鳥居
入口左右の招魂社系狛犬。拡大写真はこちら。 | |
(年代不明) |
手水舎 | 神楽殿 |
神門
拝殿
内部
彫刻
子宝・子育ての虎。
寅の年、寅の日、寅の刻生まれの徳川家康公の威厳とご祭神を守護する神使として、名工左甚五郎が彫刻したものと伝えられます。
本殿
本殿左側側面
本殿裏側。「北辰の梟」。梟が北極星(信仰の中心である妙見様)を見てるといわれる。
本殿右側側面。「つなぎの龍」
天神地祇社の解説
全国の一宮一宮やそれに準ずる神社の祭神を祀る天神地祇社が摂末社にある関係で、全国の一宮が
加盟する「全国一の宮会」から、2006年に「知知夫国新一の宮」に認定された。ウィキペディア より
皇大神宮
諏訪神社
日御碕宮
柞i稲荷神社
禍津日社(左)・天満天神宮(中)・東照宮(右)
絵馬
御朱印