氷川鍬神社

上尾市宮本町1-14(平成19年1月20日)

寛永9年(1632)、鍬大神宮として創建されたこの神社は、明治41年神社合祀令により氷川鍬神社となったそうです。多分氷川神社を合祀したのでしょう。

旧中山道沿い、JR高崎線上尾駅のすぐ近くに鎮座しております。由緒書きに上尾宿総鎮守とあります。この神社の正面に本陣があり、その両側に脇本陣が2軒あったようですから、昔からここが上尾宿の中心であったと思われます。

上尾市の市街の中心は、中山道にそった上尾宿をその源にしていますが、この上尾宿はすでに後北条時代に宿駅として成立したようです。宿駅として整備されたのは、慶長7年(1603)伝馬制施行以降のことです。幕府は中山道各宿駅には、50人54匹の人馬を用意させ、主要幹線路としての役割をはたさせました。 また、各宿に本陣、脇本陣を置いて大名などの宿泊所としました。中山道を通行した大名は、加賀の前田藩をはじめ三十四家ほどでした。上尾宿は、中山道の中では比較的小さな宿場でした。江戸時代末の家数は、182軒、人口は793人、旅篭屋は、41軒でした。図は、文化3年(1806)完成の「中山道分間延絵図」に描かれた中山道上尾宿の中心部です。中央の太い道筋が中山道で、画面右が大宮方面、左が桶川方面になります。画面下側中央の鳥居が鍬大神宮(今の氷川鍬神社)、鍬大神宮の正面に本陣があり、その両側に脇本陣が二軒あります。その右近くには問屋場、さらに右に行くと道をはさんで両側に一里塚があります。鍬大神宮のすぐ右側にもう一軒の脇本陣が描かれています。上尾宿には本陣が一軒(林八郎右衛門)、脇本陣が三軒(本陣の右が白石長左衛門、左が井上五郎右衛門、向いが細井弥一郎)ありました。これらは主として参勤交代の大名たちの宿で、本陣のことは「大名宿」ともよばれました。脇本陣は副本陣のような性格をもち、本陣の代理もしました。 
上尾市教育委員会

神社入り口と社号標。

拝殿と本殿。

神楽殿と拝殿内部。


聖徳太子碑 浅間大神

由緒書きはこちら。