内田天神社
武雄市東川登町永野(平成23年11月4日)
東経130度0分43.22秒、北緯33度9分49.37秒に鎮座。
この神社は、武雄市街地から平原峠を越えた南方で、34号線が西にカーブした先の、34号線の北に鎮座しています。神社後方はなだらかな小丘で、大きな森の中の石垣上に社地が造られています。一の肥前鳥居が立つ参道入口から北に約50m程参道が続き、その間に二の鳥居、境内入口に三の鳥居が建立されています。それぞれの鳥居には額が掲げられており、一の鳥居には「天満宮」、二の鳥居には「徳馨萬世」、三の鳥居には「至誠通天」と
線刻されています。
境内に入ると右には御堂、左奥には境内社が配され、中央奥に大正7年生まれの端正な狛犬が護る、天井絵が描かれた開放的な入母屋造りの拝殿、流造の本殿が建立されています。
とても涼やかな清々しい感じの、気持ちの良い神社でした。
御祭神:中央・菅原道真、左・参議中将輔正、右・正室吉祥女
祭礼日:不明
境内社:稲荷社
由緒:内田水上山の南麓に鎮座している。
塚崎領主十代の後藤幸明が鎌倉の柄柯えがら天神の分霊を勧請したもので、中央に菅原道真、左に孫の参議中将輔正、右に正室吉祥女を祀ってある。幸明の父、九代の氏明が死去すると、辻後藤秀明が、自分こそ十代を継ぐ資格者である旨の訴状を鎌倉幕府に送り、相続争いとなった。幸明は武雄神社に勝訴を祈願すると共に鎌倉に行き、秀明の訴願は無根である旨を陳述し、鎌倉柄柯天神に参籠して勝訴を祈った。
幕府の裁決は幸明の勝訴と決定したので、幸明は柄柯天神の分霊を受けて塚崎に帰り、内田天神を創建したのである。
勝訴が決まったのが応長元年(1311)7月22日であるから、数年後には社殿ができあがったと思われる。
(サイト「武雄市史」より)
境内「塚崎庄内田天神社縁起」拡大写真はこちらで
参道入口 |
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参道入口に立つ一の肥前鳥居 |
鳥居に掛かる額「天満宮」 |
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参道の様子 |
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参道途中に立つ二の台輪鳥居 |
鳥居に掛かる額「徳馨萬世」 |
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社頭 |
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境内へと続く石段の参道 |
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境内入口に立つ三の台輪鳥居 |
鳥居に掛かる額「至誠通天」 |
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境内の様子 |
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拝殿前、大正7年生まれの狛犬
やや上向きの塩田型といわれる狛犬で、整った顔と滑らかな身体に、縦ロールの鬣や尾等が綺麗に流れています。
狛犬の拡大写真はこちらで |
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(大正7年(1918)9月吉日建立) |
境内社:稲荷社 |
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御堂 |
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ご神木・大楠 |
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