八坂神社

佐賀市柳町1-16(平成23年8月8日)

東経130度18分32.96秒、北緯33度15分1.27秒に鎮座。

 この神社は佐賀市歴史民族館南に鎮座しています。
 市街地の中に鎮座する小さな神社ですが、入口近くに聳える推定樹齢800年のご神木・大楠の枝振りは見事です。又、綺麗に整備清掃された境内の右手には、多くの石碑石祠の中に、胸に宝珠ではなく花紋が刻まれた珍しい恵比須様もいらっしゃいます。

 御祭神:素盞鳴尊
 祭礼日:不明
 境内社:牛之島天満宮、祇園社等
 由緒:佐賀郡川上實相院燭内「泰盛院様御代、御城為鬼門除、勧請遊被…」と寺社差出にあります。初代藩主鍋島勝茂(泰盛院様1580〜1658)公により、御城の鬼門除に、国家泰平を祈念され勧請されております。また、成就院朝厳上人に宮司を仰せつけられ、境内には(牛之島天満宮)(祇園社)(寺)がありました。(「八坂神社由緒」より)

  柳町(現千代町)の元古賀銀行の南前に石造の鳥居が目につく、ここが八坂神社である。八坂神社は、祇園社ともいってスサノオノミコトを祀ってある。
 ここは、大旱魃になると、金立神社に雨乞いして、お籠もりのうえ御神体を御輿に移して、有明海の沖の島まで行くことになっているが、これは『お島さん参り』といって、有明海のど真中に暗礁があり、潮が引くと表を現す、要するに沖の島信仰は雨乞いを主体とした水の神の信仰で江戸時代からの古い伝説が今日まで伝わっている。
 50年に1度か大旱魃のときにこの『お島さん参り』が行われるが、前回は大正14年に行われた。このとき八坂神社と材木町の日天社で休息されることになっているが、日天社で休息されることは、鳥犀円の薬と金立山の『不老長寿の薬草』との関係があるのではないかと言われている。昔はこの神社でも盛大にお祭りがなされていたが、大変残念ながら今日ではとだえてこの祭りを見ることができない。
 祇園祭りの起源は、平安遷都後まもなく毎年のように、夏に流行する疫病を御霊のたたりと考え、その退散を祈った御霊会にある。それには、牛頭天王(ごずてんのう、インドの祇園精会の主護神で疫病の神)を祀る祇園社がよいというので、祇園御霊会が行われた。御輿に、祭鉾(飾りのある長い布)や田楽、猿楽、それに風流(作り屋台)がつきしたがいました。時とともに、祇園祭りは厄払いから余興本位に転化し、鉾や台を飾り、車を付け、御輿渡し変じて山鉾巡行となった。明冶になって、神仏分離から祇園社は、八坂神社と改称され、祭礼日も6月7日〜14日が、新暦の7月17日〜24日に改められ今日に至っている。 (京都府の歴史)より
 八坂神社の境内の石柵には、当時柳町や蓮池町など大変賑わった商店主、会社、銀行などの代表者の名前が刻んであり多くの人々の寄進や崇敬を集めていた様子が偲ばれる。 この神社の南、裏十間川に架かる橋を『成就院橋』と呼んでいるが、この橋の西北に『成就院』があったという。明治維新前に成就院という盲僧屋敷があって一かどの修行場だったが、維新のとき衰滅し、祭神の祠だけが神仏混淆の形として残ったので町の人達が修復して祭りを続けている。
(「佐賀市地域文化財データベースサイト さがの歴史・文化お宝帳」より)

社頭
社号標 入口に立つ台輪鳥居
境内の様子
拝殿前、昭和8年生まれの狛犬
首と背筋を伸ばした姿に、狛犬の「お社を護る」という自分の仕事に対する責任感と自負のようなものを感じます。身体の滑らかさ、均整のとれた姿には、石工さんの技量も感じられます。
狛犬の拡大写真はこちらで
(昭和8年(1933)6月1日建立)
拝殿
本殿
境内社 境内社
石仏 石仏と小祠
胸に宝珠ではなく花紋が刻まれた、珍しい恵比須様
推定樹齢800年のご神木・大楠
境内入口に飾られている「素盞鳴尊八岐大蛇退治之絵図」
境内案内「佐賀の八賢伝」