天満宮
佐賀市大和町池上(平成23年11月3日)
東経130度15分33.23秒、北緯33度17分21.26秒に鎮座。
この神社は嘉瀬川西岸、東山田地区との境界近くに鎮座しています。
社地は鎌倉時代から戦国時代にかけて当地を支配した於保氏の城跡に作られており、案内もそちらの史実に基づいて書かれています。
入口から境内までに二基の鳥居が建立され、拝殿前には二対の灯籠と大正11年生まれの岩狛さんが奉納されています。開放的な拝殿には天井絵が描かれ、本殿は鞘堂内に保護されています。又、社殿右には末社の石祠や石仏が祀られています。
御祭神:管原道真公
祭礼日:不明
境内社:五社
由緒:於保城の跡
於保城は遠く太政大臣藤原良房を始祖としている。於保氏の祖藤原実遠は京都内裏の警備役であったが保元の乱(1156)の鎮定祈願を北野天満宮に続けた功により後白河天皇の御内命を得て北野天神の分神を於保村北野に祭った。またこの地に菩提寺として長禅寺を開基した。建長七年(1255)の頃於保三郎宗益は肥前国執行職として於保、増田を領し於保城(館)をここに定めその子孫もまた幕府の御家人として重要な役をつとめた。天文七年(1534)於保城は滅び一家没落の悲運時代であったが天文二十年(1551)八戸右衛門太夫宗益のとき再興し、天満宮も改築された。元亀元年(1570)今山陣のとき大友方の先手に加わったため滅亡し、龍造寺隆信がこの地を支配するようになって城跡に天満宮を遷宮し今日に至っている。後年長禅寺も失火消失し再建されることなく廃寺となった。於保氏は鎌倉時代から室町時代に至る三百年間興亡の歴史を繰り返し、ついに戦国末期になって滅亡した。天満宮西南の地に立ち並ぶ於保因幡守胤景以下の墓石は於保氏盛衰のあとを物語るかのようである。
社頭 |
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入口に立つ一の台輪鳥居 |
鳥居に掛かる額 |
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参道の様子 |
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境内入口に立つ二の肥前鳥居 |
鳥居に掛かる額 |
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境内の様子 |
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拝殿前、大正11年生まれの岩狛さん
阿は口中に玉を含み、若々しく活動的な狛犬です。
狛犬の拡大写真はこちらで |
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(大正11年(1922)12月1日建立) |
末社の石祠 |
石仏堂 |
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