新庄八幡神社

佐賀市鍋島町大字森田2028 (平成30年12月27日)

東経130度15分24.25秒、北緯33度16分10.88秒に鎮座。

この神社は、JR長崎本線・鍋島駅の北北西1.7km程の辺り、森田の街中に鎮座しております。

御祭神 應神天皇・仲哀天皇・神功皇后・比賣大神・春日大神・他五十猛命等17柱

由緒
当社は第81代安徳天皇の養和元年(1181)宇佐八幡宮の分霊を勧請奉祀したもので当時は五社八幡宮とも呼ばれた。文応(1260〜1260)、弘長(1261〜1263)の頃異賊の襲来に備え最明寺北条時頼公西国を巡視し当地で不慮の病に罹り重体のとき当社に祈願したところ不思議な御利益を得たので、その霊験に感じて、社領を奉納し御家人を置いて、後の世まで奉祀されたという。降って永禄12年(1569)豊後の大友軍が当地に侵攻して社殿を全焼し、更に翌元亀元年(1570)8月19日大挙して今山に陣を張り、佐嘉城を一呑みする勢のとき竜造寺家の武将鍋島信生(鍋島藩祖直茂)は奇襲の策を献じて当社に必勝の祈りを籠め、その釣鐘を陣鐘とし、勝軍山勝楽寺の林の竹を旗竿に用いて夜襲し敵の大将大友八郎親秀の首級を挙げる大勝を博した。
竜造寺隆胤(隆信)がこの神恩に感謝し天正元年(1573)社殿を再興したのが今の祠であり、409年の星霜を経たものである。又鍋島直茂は文禄(1592〜1595)、慶長(1596〜1614)の役で朝鮮に出陣の際も当社に参籠して武運の長久を祈願し、花々しい軍功をたて、慶長3年(1598)師走凱旋するや翌年の正月18日社領1町歩余を寄進すると共に自ら盛大な感謝の祭典を行い、爾後毎年同じ日に名代を遣わして厳かな神事を行なうことを習わしとし明治3年(1870)迄続けられた。廃藩置県後明治政府は同6年に郷社に列し同39年(1906)には氏子地区内の数社を合祀した。かくて当社の祭祀は長い間公費により執り行われて来たが、大東亜戦争に敗れ、昭和22年(1947)新憲法の施行と共にその管理運営は総べて氏子(大字森田、字八戸浜)の手に委ねられ今日に至っている。
境内由緒書き より。

参道入口

境内入口

拝殿

拝殿前の岩乗り狛犬。拡大写真はこちら。

(年代不明)

拝殿前の狛犬。拡大写真はこちら。

(大正11年(1922)10月建立)

拝殿内部

本殿


新庄稲荷神社

石祠