八幡神社

佐賀市東与賀町飯盛下飯盛(平成23年11月5日)

東経130度17分07.18秒、北緯33度12分38.31秒に鎮座。

 この神社は広域農道・48号線から300mほど南へくだった所に鎮座しています。
 参道の入口には肥前鳥居が建立され、そこから100m程桜並木の中に北に向かって参道が作られています。道路を横切った所に立てられた二の鳥居からが神社の社地で、左に手水舎が配され、神社の目印のような大楠が聳え、参道正面にはクリークに神橋が架けられています。
 神門を入ると境内ですが、由緒にもあるように、境内には明治29年生まれの狛犬が護る妻入りの拝殿と流造の本殿が建立されるのみで境内社、石祠等は全く見あたりません。
 この社がこの地に遷宮されたのは明治7年だそうですが、それ以前からの歴史が感じられる素敵な神社でした。

 御祭神:応神天皇、比売神、神功皇后
 祭礼日:不明
 由緒:東与賀町内では明治以来村社の一つとして、神社の本殿・拝殿・社務所等も堂々たるもの、境内も広大で441坪もある。戦前から戦中にかけては武運長久の守り神としても村内外の崇敬篤く、当地方随一の参詣者が多かった。昭和20年まで東与賀村よりは、神饌幣帛料供進の指定を受けており、祭典には学校の児童・生徒も教師に引率されて参拝した。昭和11年12月には村社より昇格して、郷社への申請書を佐賀県知事に提出されたが、不幸にも敗戦となり遂にその実現を見なかった。しかし昭和49年はこの八幡社がこの地に御遷座されてから満100年の意義ある年であった。この記念すべき年を迎えて、当時八幡神社総代御厨勇をはじめこの村の長老等が中心となり盛大な御遷座100年祭が挙行されたのであった。
 鍋島侯爵家佐賀内庫所保存記録および当社保存の資料によると次のような由緒が分かる。
 この八幡神社は文治元年(1185)源頼朝の弟範頼が九州へ下向の際、家来の河野四郎道信に武運長久祈願のため、鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を此所に勧請されたのである。「此所」と伝うのは本庄町上飯盛の「衆議院議員中野実誕生地」記念碑の在る付近である。中野実はこの八幡神社の宮司の子息で、後代議士に当選したのであった。この土地から下飯盛の現地へ御遷座になったのは、明治7年(1874)で、その祝典には下飯盛地区民が浮立を打ってお迎えしたのである。その事はこの浮立の「モリヤーシ」に出演した幼児の中に、宮崎義三(慶応3年生)や福岡峰吉(明治元年生)が証言したらしい。御遷宮は現在地の境内大楠の南で、当時この近くに下飯盛矢房社や稲荷社があった神域だったのである。
 その後は当社保存記録によると、「大正3年会計指定、昭和3年11月3日八幡社遷座50年祭、昭和5年3月8日東与賀村の村社に昇格されて幣帛供進指定、昭和11年6月1日神殿・幣殿・拝殿改築落成」となった。この落成式は東与賀全村を挙げての祝典となり大賑わいがあった。これに要した経費は当八幡社に代々因縁の深い中野実家より多額の寄付と下飯盛・中飯盛・大野の大字飯盛の氏子をはじめ、村内外の本村出身者などからの寄付金で賄ったのである。また神社に必要な鳥居・幟台・献燈(2基)狛犬(東西)・手洗石等も、敬神崇祖の念に富む氏子や町村民によって献ぜられ格式高い境内を備えている。また新築に際して貢献された中野実翁の顕彰碑もこの境内に建てられて、永久にその遺徳を偲んでいる。
 ところがどこの村落のお宮や神社境内にも、庚申・地蔵尊等いろいろ合祀されてあるが、この八幡神社には全くそれらを見当たらないのが大きい特徴とされる。その代わりに楠の大樹が1本空高く亭々とそびえ立ち、広々たる神域に静寂な木蔭と爽やかな涼風を送ってくれる。根幹も胴廻りが大きく樹齢350年と想定されており、佐賀県名木の一つに指定保護されている。
(「佐賀市地域文化財データベースサイト さがの歴史・文化お宝帳」より)

参道入口
参道入口に立つ一の肥前鳥居 鳥居に掛かる額「八幡社」
参道の様子
社頭
神社入り口に建つ二の台輪鳥居 鳥居に掛かる額「八幡社」
参道の様子
境内入口
神橋
神門
拝殿前、明治29年生まれの狛犬
横幅の広い丸顔で、大きな目には薄く瞳が彫られています。身体全体に筋肉の瘤が見られ、阿の鬣は二段、吽は四段にカールしています。肩の付け根が太くやや短めの前脚や、上半身の豊かさなどから、どっしりと落ち着いた、威厳に満ちた感じの狛犬です。
狛犬の拡大写真はこちらで
(石工・淵野勇蔵 明治29年(1896)丙申10月吉祥日建立)
この辺りでは珍しい妻入りの拝殿
流造の本殿
樹齢350年のご神木・大楠
樹高:20m、幹回り:4.3m、枝張り:23m